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小堀鷗一郎「人は、“その人の生き方”で死んでいく」

最終更新日時 2020/08/17

小堀?一郎「人は、“その人の生き方”で死んでいく」

今回登場していただくのは、訪問診療医として400人以上の“看取り”にかかわってきた小堀?一郎(こぼり・おういちろう)氏。2020年7月に解剖学者の養老孟司氏との共著『死を受け入れること』(祥伝社刊)を上梓。3千体の死体を観察してきた養老氏と小堀氏が死について語りあう内容は、図らずも、新型コロナ蔓延によって“死”を意識せざるを得ない状況に置かれた私たちにさまざまな示唆を与えてくれた。現在、日本の年間死者数は約140万人。団塊世代が80歳代後半を迎える2030年代には、年間死者数160万人を超える“超高齢多死社会”が訪れる。「望ましい死」とは何か?死と向き合い続ける小堀氏に話を聞いた。

文責/みんなの介護

定年後に恩返しの思いで赴任した病院で「在宅医療」と出会う

みんなの介護 小堀先生は東京大学医学部附属病院第一外科、国立国際医療研究センターに長年勤務され、食道がん手術のスペシャリストとしてメスを執られていたわけですが、いったいどのような経緯で「在宅医療」に取り組まれるようになったのでしょうか。

小堀 僕は65歳で定年を迎えるまでの40年間、外科医として勤務していました。最後の数年は国立国際医療研究センターの院長という立場で、その後も財団の理事といった役職が待っていたわけですが、まだ現場で手術をしたかった。それで旧知の堀ノ内病院(新座市)へ赴任することにしたんです。

というのも、僕は若い頃、昼は東大病院、夜は堀ノ内病院で手術を行なって経験を積んで外科医として腕を磨かせてもらった。その意味において恩義もありましたし、当時院長だった小島武(現・理事長)君とも東京大学医学部のときの同級生という間柄でしたから、「何かしらお返しがしたい」という気持ちもあったわけです。

みんなの介護 そこで在宅医療と出会ったわけですね。

小堀 堀ノ内病院に赴任したのが2003年で、はじめの2・3年は、外来診療・手術・救急当番など、現役の若手医師とほぼ同じ仕事をこなしていました。しかし、食道がん手術を行うには7時間から8時間かかることもあってかなり体力を要するため、70歳を期に現場を退くことにしたんです。

在宅医療と出会ったのは2005年2月。手術をやめる2年前でした。急に退職することになった同僚の小児科医師から、彼が長期間にわたって個人的に担当していた寝たきりの患者2名を引き継いでほしいと頼まれたのが始まりです。

国が高齢化社会の到来に備えて、本格的に在宅医療に関する取り組みを始めたのが1980年代後半。そこから長い歳月と労力を要して、2000年に介護保険制度が創設されることとなったのです。ただ、僕個人はというと、同僚に連れられて患者さんの家を訪ね、そこで彼が畳のうえで医療を施す様子を目の当たりにするまで、そういった医療が存在することをまったく知らなかった。まさに未知の領域との出会いでした。

一人ひとりの最期にかかわる中で知った十人十色の「死」のかたち

小堀 僕はそれまで病院内における医療しか知りませんでしたから、在宅医療が行われている現場を見て、「ずいぶん大胆なことをするものだ」と驚きました。とはいえ、まだその時点では「往診」(注:小堀先生は「訪問診療」より、80歳以上の高齢者にとっては親しみやすい「往診」という言葉をあえて使っている)は、手術や外来診療の合間に行う仕事の1つという位置づけでしたので、とくに深く考えたこともなかったというのが正直なところです。

しかし、そのうち病院の近隣住民から「動けなくなった親を抱えているので、家に来て診てほしい」と頼まれるようになり、それが口コミで広がって往診依頼が増えていきました。今から考えれば、この頃すでに在宅医療の社会的需要が高まっていたんですね。また、僕自身、患者さん一人ひとりの最期にかかわることによって、「人は、“その人の生き方”で死んでいくのだ」と気づかされた。そうして在宅医療の奥深さにのめり込んでいったんです。

>訪問診療医の仕事はどうすれば“その人らしい死”を迎えられるか、皆と一緒に考える続けること

“救命・根治・延命”とはベクトルの異なる医療がある

みんなの介護 小堀先生は70歳頃から在宅医療に携わり、82歳を迎えた今も現役で患者と向き合われています。具体的に「訪問診療医」の仕事とはどういうものなのでしょうか。

小堀 一時期、僕は100名ほどの患者を抱え、月に130?140回の往診を行なっていました。なにしろ、病院に来たくても来られない患者さんたちですから、僕の方から出向いて行くしかありません。今は5人のスタッフで担当を決めて往診を行なっていますが、当初は僕1人で朝も夜も関係なし。時間もまったく不規則でした。

診療内容は患者の状態によってさまざま。外科医の頃は「救命・根治・延命」といって、何がなんでも命を救って、治して、1分1秒でも患者さんを長く生かすことが仕事でした。しかし、訪問診療ではそうではない医療も考えなくてはなりません。

例えば、97歳の寝たきりのおばあちゃんがいて、調べてもどこも悪いところが見あたらなかったとします。ただ、ご飯を食べることができず、眠ってばかりいる状態です。この場合、僕らは徐々に体が衰えて死に近づいていくのを静かに見守るしかありません。食べられないからといって入院させて点滴をしたとしても体が受けつけなくなっており、かえって苦しませてしまうことになるんです。

「在宅死」か「入院死」か?正解は1つではない

みんなの介護 死期が近づいている患者にとって、点滴や手術などの積極的治療が望ましい医療行為とは限らないわけですね。しかし、家族から検査や治療を要求されることもあるのではないでしょうか。

小堀 はい。こういった事例もありました。

長男夫婦と同居していた101歳の女性が、突然、自力でベッドに上がれなくなってそのまま寝たきりになってしまった。女性は次第に食事も取れなくなり、ある日、清涼飲料水を100ミリリットル飲んで寝入ったまま、2日間目を覚ましませんでした。

当初、家族は「在宅看取り」を行うと決めていました。ところが、女性が息を吐くときに発するかすかな息遣いを耳にした長男が「苦しそうだ。母がかわいそうで耐えられない」と言い出し、急遽入院させることになったんです。そして、中心静脈栄養による栄養管理と、併発した肺炎に対する気管切開・人工呼吸器の装着が行われました。

はじめの1ヵ月は家族も頻繁に病院を訪れていたのですが、女性に意識がなかったために、家族の訪問に対する反応もなく、次第に家族の足も遠のいていきました。女性はその後10ヵ月余りを暗い集中治療室で1人で生き続けました。そして、ある日夜勤の看護師がナースステーションのモニター画面の波形が平坦になっていることに気づき、死亡が確認されたのです。

この事例の女性が本来迎えるはずだった“望ましい死”とは、小柄な体を丸めて横たわっているそばで、家族や主治医、介護関係者が見守る10ヵ月前の「老衰死」のはずです。長男を責めるつもりはありませんが、結果として彼の判断は病院における「孤独死」を招いてしまった。

それまで僕は、患者さんや家族の要請通りに対応するのが務めだと思っていましたが、このことがあってからは方針を転換し、自分の意見を伝えるようになったんです。

みんなの介護 そもそも終末期医療における延命治療は行き過ぎではないかという見方も広まっているように見受けられます。

小堀 ただ、だからといって「在宅死」ばかりが“望ましい死”とも限りません。

以前、事前の話し合いでは在宅死を望んでいた一人暮らしの末期がんの患者さんが、最後の最後に気持ちを翻し、病院のベッドでチューブにつながれて輸血を受けながら、笑顔を浮かべて幸せそうに亡くなった。人知れず1人で死を迎えるよりも、医療の恩恵にあずかって死ぬことの満足を選んだんです。

人によっては「在宅死」より「入院死」を望むケースもあります。いつ、どのタイミングで判断するかによっても結果は違ってくる。結局のところ、訪問診療医の仕事というのは「どうすれば“その人らしい死”を迎えられるか」を当人はもちろん、家族や介護関係者とも一緒になって考え続けることです。繰り返しになりますが、「人は、“その人の生き方”で死んでいく」。そこに、これだ!という正解はないんですよ。

医療の原点は、あくまで患者の命を救うこと

みんなの介護 小堀先生は積極的な医療に関して“生かす医療”、対して在宅医療の局面で“死なせる医療”という言葉を使われていますが、具体的にご説明いただけますか。

小堀 僕が“死なせる医療”という言葉を使うようになったのは割と最近のことで、そのきっかけになったのが、知り合いの医師から聞いたこんな話でした。

元気に日常生活を送っていた96歳の男性が、ある日、トイレの便座に腰をかけてから立ち上がれなくなってしまった。すぐに都内の大病院に搬送されたものの、すでに食べものも受けつけない状態になっていたため、担当した若い医師は「維持療法」といって水分だけを与えるのみで検査や治療を行わなかったそうです。

しかし、不審に思った男性の娘さんが自分の通っている病院へ転院させて状況が一変。CT検査をしてもらったところ、男性が肺炎にかかっていたことが判明しました。抗生物質を点滴したらあっという間に元気を取り戻したんです。

つまり、男性は“生かす医療”から“死なせる医療”へのターニングポイントをまだ超えてはいなかった。若い医師は男性が90歳を超える高齢であったことから、見極めを誤ってしまったわけです。

みんなの介護 どうしてそんなことになってしまったのでしょう。通常の検査を行えばどんな症状かは簡単にわかったことですよね。

小堀 近年の在宅死を美化する風潮も関係していたのかもしれません。その若い医師のやり方は、何が何でも延命治療を行わない先駆的な医師と見ることもできますから。

ただし、高齢だからという理由で検査を行わず“死なせる医療”を選択したのだとすれば、それは大きな間違いです。医療の原点は、あくまで患者の命を救うこと。それを忘れてしまっては本末顛倒というよりほかありません。

毎日顔を合わせていても、“死にどき”の判断を誤ることもあり得ます

小堀 実は僕もこの若い医師と同じミスを犯したことがありました。

以前出会った方の中で夫と早くに死別しており、97歳でアパートに1人で暮らしていた女性がいらっしゃいました。子どももおらず、肉親は関西在住の実弟が1人いますが、その弟さんもパーキンソン病で介護を受けているといった境遇の方でした。

ある冬の日、その女性は脱水症状を起こして堀ノ内病院に救急搬送。しかし「どうしても家へ帰りたい」と言って聞かなかったため、半ば強制退院のような形で翌日自宅へ戻り、僕が定期的に訪問して様子を見ていくことになったんです。はじめて訪問診療を行ったときのことは忘れられません。戦前、活動写真女優(映画女優)として活躍していたという彼女は化粧をし、台湾で国策映画に出演した際に贈られたというチャイナドレスの装いで僕を待っていました。部屋の様子を窺うと、壁一面、彼女自身の全盛期のブロマイド、映画監督だった亡夫、ハンチング帽にマフラーという、当時の粋なファッションで決めたカメラマンの義弟の写真などで埋め尽くされており、まさにセピア色の世界。つまり、女性は華やかであった日々の思い出に彩られたその部屋を、片時も離れたくなかったわけです。

みんなの介護 その方にとって、ご自宅は大切な場所だったのですね。その後はどうなったのでしょうか。

小堀 彼女は夏頃から歩行困難になり、しばしば室内で転倒して動けなくなっているところを訪問ヘルパーに発見されるようになったため、在宅主治医として今後のことを話し合いました。

彼女の希望はあくまで「この部屋で最期を迎えたい」の一点張り。したがって、唯一の肉親である弟さんにも「私が看取りますので、合意確認書に署名捺印して送り返してください」という内容の手紙を送りましたが返事はありませんでした。

しかし秋が近づいたある日、ヘルパーがご自宅を訪ねると内側から鍵がかかっていて返事がなく、レスキュー隊を要請。ドアチェーンを切断して部屋に入ると彼女が倒れていて、そのまま堀ノ内病院へ搬送されて入院することになりました。結果として、「自分の部屋で死にたい」という彼女の希望は叶えられなかったんです。

みんなの介護 その方は「家に帰りたい」とおっしゃったのでしょうか。

小堀 実はそうではなかったんです。あれだけ入院を嫌がっていた彼女が、なぜか「もう少しここにいてもいい」と言い出した。以前、小島院長(現・理事長)に「夜中に口内炎が痛い」と訴えたところ、口の中に指を入れて軟膏を塗ってくれたことに感激したため、気持ちが変わったそうです。しばらくの間、僕が複製してあげた自身のブロマイド写真を眺めながら入院。その後は施設に移り、3年を経た今もセピア色の思い出に浸りながら元気に過ごしています。

結局、僕と女性が話し合って自室での死を選択したときは、まだ死にどきではなかった。こんなふうに訪問医として毎日のように顔を合わせていても、生かす医療から死なせる医療へのターニングポイントを見極める判断は極めて難しいということなんです。 

しかるべき最期を迎えるためには、普段から信頼できる“かかりつけ医”を持つ

みんなの介護 いざというときに医師に判断を誤らせないようにするには、患者の側は何を心がければいいのでしょう。

小堀 救急搬送先の医師がどんなに優秀でも、日頃から患者の持病や体調の変化を把握している医師でない限り、「延命をするべきか、何もするべきではないか」どうかを的確に判断することはできません。

今、私のいる病棟にも20?30人の医師が働いていますが、彼らは例外なく命を助ける医療しか行いません。僕の診ている老衰の患者が入院してきても、いつもと同じ治療を行おうとしますので、当然意見は合いません。僕は、患者の死期が近づいたときに尿が出なくなるのはあたり前という認識なのですが、彼らは「1日でも命を延ばそうとするのが、本来の医者のあるべき姿だ」と考えて透析治療をしようとするんです。もちろん、それも間違いではありません。ただその場合、家族もどうしていいかわからず、主治医である僕に意見を求めてくるわけです。

みんなの介護 その場合、小堀先生はどうお答えになるのですか。

小堀 透析をすれば腎臓は一時的に生き返るかもしれません。しかし、一部の臓器だけが持ち直したところでその先に希望があるかというと難しいケースが多いです。それに、現実的な問題として、治療方法によっては高額な医療費も発生します。そういったことについても家族に話したうえで考えてもらい、そこで出た結論を僕から医師に伝えるようにしています。

したがって、さっきの質問に対する答えですが、医師に死にどきを誤らせないようにするために患者にできることがあるとすれば、普段から信頼できる“かかりつけ医”を持つこと。それに尽きるのではないでしょうか。

看取りは、患者と家族にとって最後に残されたかけがえのない時間です

看取るのは医者ではなく家族

みんなの介護 小堀先生は「訪問診療医」として患者と密接な関係を築いている一方で、基本的に「患者の臨終には立ち会わない」とお聞きしました。それはどういった理由からでしょうか。

小堀 在宅死の場合、昔なら「ご臨終です」と厳粛にやるために、夜中でも医者が駆けつけましたが、看取りは患者さんと家族にとって大事な時間。そこに医者は必要ありません。もちろん、患者の死に至る過程に医師がかかわらなくていいという意味ではなく、最後の瞬間は席を外す。家族には「僕を呼ぶより、朝まで手を握っていてあげたり、家族みんなで体を拭いてあげたりして過ごして」と伝えています。実際、80パーセント以上が在宅死だった1950年頃までは、家族皆でそうしていました。

医者に連絡をするのは朝になってからでいい。死亡診断書を書くのは、それからでも遅くありませんから。

「死」はドラマの中のできごとではなく身近なものとしてとらえる

みんなの介護 終末期の医療やケアについて事前に家族や医師などど話し合う「人生会議(ACP:アドバンス・ケア・ プランニング)」について小堀先生はどのようにお考えですか。

小堀 厚生労働省の取り組みとしてはヒット作だったと思っています。自分の死や人生の最終段階について、きちんと考えられる状態のときに家族皆で「人生会議」と称する話し合いをしておきましょうというのが主旨ですから、何も間違いではなかった。ただ、周知目的で制作されたポスターが否定的な受け止められ方をしてしまった。これは非常に残念でした。

いずれにせよ、一生懸命生きることと同じくらい、「死」について考えたり論じたりすることも大切なはずなのに、この国はなかなかその段階に進めずにいる。そこが一番の問題なんです。

みんなの介護 死を恐れすぎる余り、自己の死について思考停止に陥っているということですね。解剖学者の養老孟司先生と「死」について真正面から語り合った近著『死を受け入れること』を上梓されたのも、そういった現状に対する問題提起でもあったのでしょうか。

小堀 「在宅死」が一般的な死に方だった1950年代まで、死は誰にとっても身近にありました。それが今日では「病院死」の割合が大きくなり、いつの間にか「死」はドラマの中に出てくるできごとになってしまった。

ただ、昨今のコロナ禍によって死が急に身近に迫ってきたと感じている人も増えているのはたしかなようです。きっかけは何でもかまいません。皆さんも自分の死について、一度じっくり思いを馳せてみてください。

自分の死を受け入れなければ「理想的な死」は迎えられない

みんなの介護 小堀先生が訪問診療医として行ってきた看取りは、まさに「人生会議」の先駆けだったと思われます。先生は「理想的な死の迎え方」とはどういうものだとお考えですか。

小堀 カルミネーション(最高点や頂点、最高潮のこと)を目指し、自分がやりたいことをして死ぬ。「こうありたい」と願う最期を迎えるのが理想的な死に方でしょう。しかし、それを実現するには、まず患者さん自身が「自分が死ぬ」ことを理解してもらう必要があります。

今の世の中には「人間はいつか死ぬ」という発想が欠落している。それを理解できないと自分の死は受け入れられない。どういう死に方をしたいか考えるというのは、その次の段階なんです。

以前に石巻で東日本大震災に遭われた80代後半の老夫婦がいらっしゃいました。津波で自宅を流され、親しかった近所の方々も多く失って。それで堀ノ内病院のある新座市に住む娘さんのところへ身を寄せたわけですが、奥さんは震災のトラウマでうつになってしまった。1年半ほど経過すると奥さんは回復を見せたのですが、僕が訪ねたときは顔が黄色くなっていました。すぐに入院させて検査したところ、膵臓がんが肝臓に転移していてすでに末期。黄疸が出ていたんです。

みんなの介護 末期となると、治療による回復も難しい状況が多いですよね。その方とご家族はどのようにおっしゃったのでしょうか。

小堀 娘さんの息子であるお孫さんから「これ以上検査をするのはやめてください。すぐにおばあちゃんを家へ帰して、おじいちゃんと2人にしてやってください」と言われました。そのお孫さんは大きな病院に勤める医師で、もう助からないことをただちに理解したわけです。

しかし本人に「お孫さんがきちんと面倒をみてくれるって言っているから、あとは家で療養なさってはどうですか」と勧めても、「とんでもない。こんなに体がだるくては主人のご飯もつくれません。私は元気になってから退院します」ときっぱり拒絶されてしまった。結局、奥さんは4日後に亡くなりました。

つまり、この患者さんは震災で「人の死」をいやというほど目のあたりにしてうつを経験したにもかかわらず、「自分が死ぬ」とは露ほども考えていなかった。これは皮肉ではなくて、世間一般の方は皆さん同じで、今はそういう世界になってしまっているんです。

みんなの介護 自分の死をイメージできるかどうか。まずはその一線を越えないことには理想の死に方を模索することもできないわけですね。

最期のときを伴走する者の務めは恐怖に打ち勝ち、やれることはなんでもやる

理想の死は、その人にとっての“普通の生き方”の先にある

小堀 理想の死に方といっても人それぞれです。中には自分の死を受け入れ、「これだけはやり遂げたい」と言って、映画やドラマのような劇的な最期を遂げる方もいます。しかし僕の知る限り、大抵の理想の死は特別ではない。極めて普通です。

例えば、お酒が好きで好きで仕方ない末期がんの患者さんに「もうあなたの好きにしていいよ」と言ったら、大きなボトルに入ったウイスキーを抱えてストローで飲みだした(笑)。それならと、僕の家にだいぶ前に人からいただいた高級ウイスキーがあったので、それを手土産に訪ねて一緒に飲んだら「こんな良い酒は飲んだことがない」とものすごく喜ばれて。もちろん、元気になったのは一時的でしたが、その患者さんは好物の寿司やうなぎも食べ、その2ヵ月後に亡くなりました。

僕はこういう“今まで通りの生き方”“ありふれた望みを叶えること”を最期に選んだ患者さんをずいぶん見てきましたし、実は僕の祖父の森?外もそうだったんです。

みんなの介護 ご祖父様も、というのは意外に感じられました。詳しく教えていただけますか。

小堀 ?外は陸軍軍医総監を退官してから上野の帝室博物館(現・東京国立博物館)の館長を務めていました。毎朝、家を出て坂をのぼってそこへ通う。文豪として知られる祖父ですが、最期に彼が望んだのは普通に仕事をして家に帰ること、平凡な1日を過ごすこと。特別なカルミネーションを求めていたわけではありませんでした。僕はそれが人間というものなんだと思います。

支援者にとっては1つの死であっても、その人の死はその人だけのもの

みんなの介護 小堀先生はケアチームの介護関係者とどのような連携を取られているのでしょう。

小堀 これが非常に難しい。多くのケアスタッフは僕の考えを理解してくれません。極論を言えば、ケアマネージャーも看護師も「死」が怖いんです。だから患者の具合が少しでも悪くなると入院させようとする。世間一般の方々と同じように、ほとんどの介護関係者が在宅死の現場に立ち会った経験がないため、どうしても死から目を背けてしまうんです。

以前、自宅で死にたいという患者さんの希望を叶えようとしたら、「この家で死なれては困る。死ぬときは病院でという約束で貸している」と大家さんに言われたんです。もちろんそんな約束を交わしているはずはなかったため何とか取りなして、最終的には「霊柩車を家の前に呼ばない」という条件で折り合いをつけました。それくらい、今の世の中で「死」は忌み嫌われているんですよ。

みんなの介護 在宅医療における看取りは、場合によってはそこまで踏み込んだケアが必要になってくるのですね。

小堀 僕のようなやり方をすべてのスタッフに求めるのは無理です。人手不足もあって一人ひとりにかかりきりにはなれません。事務的にならざるを得ない事情があることも重々理解しています。しかし、その人の死はその人だけのもの。その人らしい死を迎えてもらうために、僕としてはやれるだけのことをしてあげたい。人生の最期のときを伴走する者の務めだと思うんです。

撮影:荻山 拓也

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07