佐山展生「入社した時点で人生が決まる定年雇用という社会の仕組みそのものが間違っていると思った」
インテグラル代表取締役パートナーの佐山展生氏は、日本にプライベート・エクイティ(PE=未公開株)・ファンドを根づかせた立役者のひとり。事業の立て直しや事業継承を目指す企業に出資して企業価値を高めたのち、買収価格よりも高く売却することから、以前「ハゲタカ」という代名詞で呼ばれるもあったPEファンド。しかし佐山氏らが目指すのは、投資先企業の経営者、従業員の意思を尊重した“日本型”PEファンドで、ハートのある信頼関係を構築し、みんなで「良い会社」を作ることを目指しているという。2015年1月、民事再生法の適用を申請したスカイマークの再建事業はその代表例だ。そんな佐山氏の目に映る、ここ数十年の時代の変化について語ってもらった。
文責/みんなの介護
サラリーマン・オブ・ザ・イヤーなどといったものがあれば、私は毎年ノミネートされていたでしょうね
みんなの介護 佐山さんが帝人に就職して社会人になったのは、1976年。当時と今とでは、社会のあり方がまったく違っていたと思うのですが、いかがでしょう?
佐山 いろいろな面で、別世界でしたね。就職について言えば、当時は新卒で入社した会社を定年まで勤めあげるというのが常識で、誰もそのことを疑いませんでした。私は今年で65歳になりますが、帝人の同期の中で、今も現役で働いている人は1人もいません。
とはいえ私自身、30歳になるまではみんなと同じ会社人生を歩むものだと固く信じていました。もし、サラリーマン・オブ・ザ・イヤーというものがあったとすれば、私は毎年ノミネートされてもおかしくないような状態でしたから。
私がそうなったのは、中学・高校・大学と野球部に所属していたことも大きいと思います。サッカー選手と違って野球選手というのは、言われたことをきっちりやるのが基本です。ベンチからヒットエンドランのサインが出ているのに、ピッチャーの球が気に入らないからといって自分の判断でバットを振らないなんて、あり得ない。
高3の夏の甲子園大会、京都府予選もベスト8に進出するなど、そういう野球というスポーツをひと筋にやってきたので、上からの命令に疑問を持たず、ただひたすらに突っ走ることが骨の髄まで身についていたのです。
みんなの介護 まさに大企業で働くには、うってつけの人材ですね。
佐山 その通り。エンジニアとしてポリエステル重合の部署に配属され、ヘルメットと作業服姿で工場の3交代勤務にも3年間従事していました。その後、工場の増設や自動化、それから新品種のポリマー開発など、仕事は面白かったですね。
そんな私が30歳になって、初めて疑問を持った。このままずっと働いて、本当に悔いのない人生になるんだろうかと。サラリーマンとして一生懸命に働いた先のベストケースは、社長になることでしょう。ところが、会社の中でつねに1人しかいない社長になれるとは限らない。
会社の中で自分がどれだけ頑張って実績を残したとしても、必ずしも出世し続けられる保障はないわけです。取締役や社長、常務にならなかったとき、「これだけ実績をあげたのに、どうしてですか」と文句を言っても仕方がないのが大企業だとわかった。そしてそれに気がついて初めて、自分は大企業には向いていないということを理解したのです。
当時、興味本位で面接を受けたんです。その帰り道にはもう転職しようと決めていましたね
みんなの介護 しかし、当時はまだ終身雇用が当たり前の時代だったでしょうから、転職という選択肢はなかったのではないですか?
佐山 ええ、そうですね。私は学校を卒業してどこかに入社した時点でその人の人生が決まるという社会の仕組みそのものがおかしい、間違っていると思っていました。しかし、当時は転職市場もなく、自分の力で生きていくためには資格をとらなければいけないと、LEC(東京リーガルマインド)の司法試験の通信教育に申し込んで民法などの勉強を始めました。
今ふり返ってみても、あんなに勉強したのはあのときが初めてです。私が勤務していたのは愛媛県の松山工場でしたが、工場前の社宅から職場へ行き来する間やお昼のお弁当を食べる時間など寸暇を惜しんで、カセットテープを聞いて必死で勉強しました。
初めて司法試験の択一の願書を出したのが、33歳の春です。ちょうどそのとき、昼休みに隣の人の机の上に日経新聞が置いてあって、「三井銀行 中途募集 35歳以下の国際業務・証券業務経験者」という文字が目に入ってきて、興味をもったんです。
みんなの介護 でも、金融業界で働いた経験なんてなかったのではないですか?
佐山 だからこそ興味を惹かれたんでしょうね。自分とはまったく別世界で生きている人が、エンジニアの私をどう思うのかなと。ですから、松山空港から飛行機に乗って東京本社の面接を受けに行ったのは完全な興味本位でした。その時点で「受かりたい」とか、「条件が良かったら転職しよう」という考えもまったくありませんでした。
面接で当時、日本ではまだ始まったばかりのM&A事業を行うという事業開発部長がこんな風に説明してくれました。
「M&Aとは、2つの会社を合併したり、他の会社を買収することをいいます。M&Aを成立させる過程では、当事者の売り手・買い手企業だけでなく、弁護士や会計士など、さまざまな人が関わります。M&Aアドバイザーは、そうした人たちの意見を1つにまとめるオーケストラの指揮者のような存在です」と。
M&Aって面白そうやなと、直感的に思いました。帰りの飛行機の中で銀行に行こうと決めて、家に帰って「銀行に転職するわ」と告げました。

10年後から現在を考えると、今悩んでいることの結論は案外簡単だと気づく
みんなの介護 帝人を退社する際、慰留をされませんでしたか?
佐山 ええ、それはそうです(笑)。帝人というのは本当に良い会社で、みんな私のことを親身に考えて「何が不満なんだ、どこに異動したいんだ?」と聞いてくれました。しかし、「そうか銀行か、もしかしたら面白いかもしれんね」なんて言う人すら1人もいませんでした。でも、自分は大企業には向かないとすでに悟っていたので、別世界に入っていく不安よりも、まったく未知の世界の銀行、そしてM&Aの世界への興味の方が勝りました。
転職するに際して、その転職が自分にとっても家族にとっても良いと思っても、それを家族などに説明しても納得してもらえるかどうかはわかりません。しかし、自分自身を一番真剣に考えて人生を決めるのは自分。そして、自分のことを一番知っているのも自分です。ですから、会社の人達や家族などに、なぜ転職するのかの「説明責任」はありますが、「説得責任」まではないと思っています。
みんなの介護 半ば冒険心で飛び込んだM&Aの世界は、どんな風に見えましたか?
佐山 銀行に入ったときは、案件もなく、M&Aの世界なんかは見えませんでした(笑)。
当時の三井銀行も帝人と同様に良い人たちばかりで、1週間で会社に馴染みました。M&Aのチームは私を含めて6人でしたが、まだ銀行としても何も実績がありませんし、当時、M&A関連の本も出版されていないような時代でした。M&Aの案件もありませんから、職場の仲間と定時で会社を出ると、毎日のように麻雀をしていました(笑)。
最初の案件がきたのは、転職して2~3週間くらい経った後のことです。大阪の中之島支店から、上場企業で断熱材メーカー大手の明星工業がボイラーの会社を買収したいという案件でした。そのときは「ボイラー技師2級の資格を持っているから」という理由で私が担当にされたんです。ボイラー技師2級は、帝人の工場の技術者ならみんな持っている資格ですが、その免許が人生で初めて、そして唯一役に立ちました(笑)。
みんなの介護 当時、そのボイラー会社はどういう状況でしたか?
佐山 その会社はある造船会社の子会社でしたが、親会社の業績不振の影響を受けて、倒産寸前でした。ですから、その買収が成立しないとボイラー会社は破産し、そこに勤めていた社員全員、路頭に迷ってしまう。
4つ上の先輩と私の2人で3ヵ月間、この買収をうまくまとめようと、買手は大阪、売手は愛媛、その間を奔走しました。そして無事、リーガロイヤルホテルの一室で調印式を終えたときは心からホッとし、それと同時に、M&Aはなんてやりがいのある仕事なんだ、「M&Aは天職だ」と思って、以後、M&Aの仕事にどっぷりとはまっていくわけです。
みんなの介護 その後、佐山さんは米国・ニューヨーク支社に駐在されますが、これはご自身の希望ですか?
佐山 そうです。M&Aアドバイザーは天職だと思っても、国内の案件はまだ少なく、海外の企業買収の経験を積むには海外に行く必要があると思ったからです。ニューヨークでは5年3ヵ月ほど働きましたが、仕事と並行してニューヨーク大学大学院の夜間のビジネススクールに2年間通ってMBAを取得しました。通常4年はかかるそうですが、「2年で取る」と目標を立てて、昼間は仕事、夜は勉強と頑張りました。
入学したときは38歳。20代のアメリカ人が学ぶ夜間のMBA、38歳の日本人がやっていけるのか迷いましたが、良いことに気がつきました。人生は一度です。MBAも行くか行かないかのどちらかです。
10年後、行ったケースでは「あのとき迷っていたけど、行ってよかった」と思っているだろうし、行かなかったケースでは「あのとき迷っていたけど、行けばよかった」と思っているだろう。ならば、行けば良いですよね。10年後から今を振り返ると案外、結論は簡単だと気づけることが多いように思います。
お金は結果。そんなことより勝負欲や達成感です
みんなの介護 実は、佐山さんにお会いする前は「お金が大好きで、数字でものを考える人なんだろうな」と勝手に想像していたんですが、それとはまったく違うイメージなので驚いているんです。
佐山 確かに金融の世界は「お金大好き」という人が少なくはないので、異色かもしれませんね。それには社会に出た最初の11年間、メーカーでものづくりをしてきたことが影響しているように思います。
そもそもお金というのは目的ではなく、良い仕事をした結果としてついてくるもので、そんなことよりも、事業欲とか勝負欲、それからやりがいとか達成感を得ることの方が重要だと思っています。
みんなの介護 勝負欲というのは、どのようなときに出てくるのでしょうか。
佐山 ニューヨークから帰国した翌年の1997年4月1日、日債銀(現・あおぞら銀行)子会社のクラウン・リーシングが戦後最大と言われた1兆2,000億円の負債を残して破産の申し立てをしました。このとき破産管財人の三宅省三弁護士からアドバイザーを依頼されたんですが、それは三宅先生にある提案をしたからです。
当時のM&Aでは、買手候補に個別に声をかけて買収を打診し、だめなら次の候補に打診するというのが一般的なやり方だったんですが、クラウン・リーシングの社員の皆さんは、雇用がその年の7月末までしかなく、従来の方法で買手を探していては全然時間が足りない状況でした。そこで、米国で一般に行われていた、情報を複数買手候補に公開して出資を募る「入札方式」を提案して、それが認められたんです。
その結果、海外資産の 800億は比較的すぐに売却先が見つかったんですが、3,000億円のリース営業資産の買い手は簡単ではありませんでした。しかし、最後に名乗りをあげてくれたのがオリックス社長の宮内義彦さんでした。移籍を希望する社員も全員雇用するとのこと、とても嬉しかったのを覚えています。
すぐに契約を調印したいと思い、「いつにしましょうか」と予定を尋ねました。宮内さんが手帳を出して「来週はね…」とおっしゃられたところで「今週の金曜日はどうですか」と言って、調印式は金曜日になりました。水曜と木曜の2日間で契約書をまとめなければいけませんでしたから、ほとんど寝ていません。だけど、ゾーンに入っているからまったく苦になりませんでした。
みんなの介護 勝負欲はそうした場面で出ていたのですね?
佐山 そうです。そしてこれこそまさに、誰もやったことのなかった「破産企業のM&A」「入札によるM&A」でした。初めて感じた、結果を出せたときのこの上ない達成感。こんな感覚はそれまでに味わったことがありませんでした。
社員一人ひとりが仕事に誇りを持ち、真剣に取り組もうと思えなければそこは、“良い会社”ではない
みんなの介護 1998年に三井銀行を退社し、ユニゾン・キャピタルを共同設立した佐山さん。このときも帝人を辞めたときのように、冒険心が原動力だったのでしょうか?
佐山 そうですね。日本にファンド市場というもの自体がなかった頃ですから、みんなは、何を考えているんだろうと思っていたでしょうけど、私には帝人を辞めたときのように、何か面白そうに思えて、突っ込んでいきました。
判断のきっかけになるのは冒険心だけではありません。“みんなが「止めた方が良いのと違うか」と思うこと”は、裏返せば、“まだ誰もやっていないこと”です。だから、競争相手がいない世界でもあります。
みんなの介護 2007年に山本礼二郎さんらとインテグラルを共同設立したのは、まさにその「やりたいこと」、すなわち日本型プライベート・エクイティ・ファンドを作りたかったからなんですね。この日本型PEファンドについて、改めて説明していただけませんか?
佐山 一般的にPEファンドは、事業の立て直しや継承、再成長を必要とする会社に投資して企業価値を高めたのち、買収価格より高く売ることで投資家に利益をお返しするという仕事をしています。
そもそもは1970年代にアメリカで始まり、世界中に広まりました。「バイアウト」という手法を用いていることから、バイアウト・ファンドとも呼ばれます。
インテグラルが目指しているのは、そうしたアメリカ型のPEファンドではなく、日本型のPEファンド。お金を儲けるための投資ではなくて、投資先の会社のみなさんの意思を尊重してハートのある信頼関係を築き、ともに「良い会社」を作ることを目的に頑張っています。ここで言う「良い会社」とは、社員一人ひとりが仕事に誇りを持てて、真剣に取り組もうと思える会社、と言い換えても良いでしょう。
みんなの介護 村上ファンドの村上世彰さんは「物言う株主」と呼ばれましたが、それとも違うのですね?
佐山 村上さんが以前よく言っていたのは、「投資家の利益が大事」ということ。人のお金を預かっているのだから、利益を返すことが最優先だというわけです。
しかし、ヘッジファンドのように、少数株などを日々売買しているファンドならまだしも、実質過半数の株式を取得し、会社の経営権を握っているファンドは、その会社の従業員一人ひとりの生活を背負っていると言えるのではないでしょうか。ファンドの影響力が大きければ大きいほど、その社会的責任は重いはずです。
ですから、本当に優先すべきは、投資家の利益というよりも、その会社を「良い会社」にすることで、その結果として業績が上がり、ひいては会社の価値が上がれば、投資家に返すお金も増えていくというのが正しい優先順位だと私は思うのです。
燃えるような情熱を持って臨んだスカイマーク再生は、一世一代の大勝負でした
みんなの介護 2015年1月に民事再生法の適用を申請したスカイマークへの投資も、お金を儲けるためではなく、「良い会社」を作るための投資だったのですね?
佐山 ええ、その通りです。インテグラルを共同設立したのは2007年ですが、そのときはまだGCAとの仕事を並行して行っていました。100%インテグラルに注力できるようになったのはGCAの株式も売却した2014年1月からでした。スカイマークへの投資は、そういう立場になってからの投資案件です。
みんなの介護 スカイマークを救済しようと思ったきっかけは何だったのでしょう?
佐山 いや、救済しようなんて偉そうに考えていたわけではありません。実際、私たちの調査では、90億円を融資すれば再建できると見込みましたが、確実なリターンがあるという保証はどこにもありませんでした。
会社が民事再生法を申請すれば、社員の皆さんは不安になって辞めていく人も増えますし、お客さんだってそんな会社の飛行機に乗ろうとは考えないかもしれない。そんな状況で、「90億円あれば大丈夫です」なんて、誰にも確証をもって言えるわけがありません。
とはいえ、この仕事をやってきた経験の中で、どこかで「90億円出したとしても、それがなくなることはないだろう」という気がしました。明確な根拠はありません。ただ、そう感じたのです。
よくよく考えてみれば、スカイマークは大手2社に継ぐ3番目の独立系の会社です。その会社がなくなれば、大手2社は運賃を上げてきます。そうなると困る人がたくさん出てくる。スカイマークがあるから、大手の航空運賃は無闇に値上げをできないという面があるのです。
みんなの介護 つまり、スカイマークの再生には、充分な大義名分があったわけですね。
佐山 そうです。スカイマークがなくなれば、独立系の航空会社がなくなってしまう。ここに投資でも「何とか出来るんとちゃうか」という私たちの読みがあり、パートナー全員一致で投資の意思決定をしました。しかし、インテグラルのみんなにとって一世一代の大勝負であることは間違いありません。燃えるような情熱を感じました。
鹿児島空港支店の説明会。「不安」の2文字を描き写したような顔で埋め尽くされていた
みんなの介護 インテグラルが50.1%を出資したことで、佐山さんはスカイマークの会長に就任します。社員の人たちは、投資ファンドの代表がトップに立ったことを知って、戦々恐々だったのではないですか?
佐山 社員の人たちが私を「ハゲタカ」のイメージで見ているかもしれないと、全国の支店や空港を飛びまわって状況の説明をして回りました。東京の本社では3回の説明会を行い、社員のご家族の方にも集まってもらいました。民事再生とは何なのか、インテグラルがどういう会社なのか、どのようにしてスカイマークを再建しようとしているのか、皆さんに直接説明していったのです。
みんなの介護 どんな反応が返ってきましたか?
佐山 鹿児島空港支店の説明会での一場面は、今でも脳裏に焼きついています。話すべきことをひと通り話し終えたあとで、「何か質問はありませんか?」と聞いたんです。ところが、空気がシーンと凍りついたようになっていて、誰も手を挙げない。改めて目の前の人たちの顔を見てみると、「不安」という2文字を描き写したような顔で埋め尽くされていました。
そこで、私の方からある男性を指名してみると、その人は「人員整理とか、給与カットはあるんですか?」と質問してきました。
そこで初めて、社員の人たちが何を不安に思っているのかに気づきました。「スカイマークが破綻したのは、不効率な航空機を購入しようとしたからで、社員を増やし過ぎたからでも給与を多く払い過ぎたからでもありません。ですから、人員整理や給与カットは絶対にしません。私はみなさんにそのまま働いてもらいたい」そう述べて、以降の説明会では、まずこの話から始めることにしました。

一人ひとりの責任と、部署間の密な連絡。目標達成は“総合力”です
みんなの介護 2015年9月29日から新体制になったスカイマークは、「安全と定時運航の維持」を経営方針に掲げましたが、これはなぜでしょう?
佐山 「安全」は決して欠かすことのできない最優先事項ですが、「定時運航」についても同じことが言えたからです。市江社長は、友人がスカイマークを利用した際に遅延したという話を聞いてとても恥ずかしく、また、何とかしたいと思ったとのことでした。その当時、スカイマークの印象を聞くと、返ってくるのは「欠航と遅延が多い」というもの。破綻前のスカイマークの定時運航率は2010年度7社中の7位、2011年度8社中8位で、その後も最下位争いをしていました。「お客様の時間を大事にしない航空会社」というイメージがすっかり付いてしまっていた。
とはいえ、「言うは易し行うは難し」で、定時運航率の改善は一部の人が頑張っただけではできません。乗務員や整備士、地上旅客担当者、運航管理者、グランドハンドリング担当者など、すべてのスタッフが一丸となって取り組まないと実現できません。一人ひとりが自分の仕事に責任を持ち、さらに部署間の連絡を密にとれるような風通しの良さを生かした航空会社の総合力が問われるのです。
社員一丸となって取り組んだ結果、2017年度の定時運航率が93.06%と、国内航空会社12社中1位になったことは私自身もとても驚きました。また、営業黒字は2016年度、すなわち2017年3月末期に達成して民事再生手続きを終結。2017年度は、売上高820億円、営業利益も70億円を超えるところまで回復することができました。
みんなの介護 なぜ、そんなに早く目標を達成できたのでしょう?
佐山 定時運航率について、私たちは「日本一を目指す」というスローガンを掲げたんですが、それがわかりやすい目標だったのでしょう。これは今でも行っていることですが、毎朝、全国の支店をテレビ会議で結んで前日のすべての空港の定時運航率を共有しているんです。
そして、週に1回行われているオペレーション・レビューという会議では、飛行機が遅れた原因、欠航した原因を徹底的に分析して、次に同じようなことが起こらないよう対策を練ります。また毎週、他社の定時運航率もチェックしていますから、スカイマークが今どのポジションにいるかがよくわかるんです。地道な取り組みですが、それらによって少しずつでも結果が良くなっていると実感できることがやる気につながります。
もしこれが、「売上何%アップ」のようにお金を基準にした目標だったら、具体的に何をしたら良いかがよくわからずに、これほどうまくいかなかっただろうと思います。
みんなの介護 佐山さんが講演などでよくおっしゃっている通り、「知らないうちに富士山に登った人はいない」というわけですね?
佐山 その通りです。富士山の頂上まで登るのはなかなか大変なことです。たまたま良い天気で、気持ち良く歩いて足を延ばしたら富士山の頂上にいた、なんてことはありません。富士山に登った人たちは、「富士山に登るぞ」と決めて家を出た人だけです。
スカイマークが定時運航率で日本一になることができたのも、「日本一を目指すぞ」と決めたからで、本当に難しいことは目指さないと達成できないのです。
どんなに大変だったとしても苦にならないんです。「心の底からやりたい」と思えることは
みんなの介護 ところで、インテグラルは投資会社ですから、投資によって得た利益は投資家に還元する義務があります。スカイマークの株式も、次の株主に譲渡する日がいつかはやってくるはずですよね?
佐山 もちろんです。ただし、スカイマークに限らず、これまで投資したすべての会社に共通して言えることですが、私たちは投資先の企業が望まない形で株式を売却するようなことは、絶対にしないということをポリシーにしています。
それは、すでに何度も述べていることですが、私たちが「お金儲け」ではなく、「良い会社」作りをつねに最優先しているからです。体操の鉄棒競技に例えて言えば、どれだけ良いパフォーマンスをしても、最後の着地(売却)でドーンとコケてしまえば金メダルをもらえないのと同じことです。
ですから、私たちと投資先とのつき合いは、自然と長くなります。実質的な経営者としてスカイマークと関わってきたこの3年間は、私にとって初めての経験で、非常に多くのことを学びましたが、まだ序章です。
みんなの介護 具体的に、どんなことを学びましたか?
佐山 何よりも経営者は、私利私欲があってはいけないということを学びました。スカイマークでは、私が何を考え、いつもどういうことをしているのかを全従業員と共有することが重要だと考え、週に1回、全社員に写真付きのメッセージを送っているんですが、そこには私のメールアドレスと電話番号も付けています。昨年は鹿児島空港支店から誘われて霧島国分夏まつりに3連続で参加し、深夜までの飲み会にも付き合って生の声を聞くことができました。
ところが今年の霧島国分夏まつりが開催される7月の3連休、私は神戸でゴルフの予定を入れてしまっていたんです。鹿児島から「支店長が変わったので、今年も一緒に踊りませんか?」というメールが届いて「しまった!昨年まで2連続で行っていたから今年は欠席にしようと思っていたけど、支店長が変わったんだった!」と思いました。
あわてて調べてみると、初日のゴルフが終わったあと、神戸から伊丹空港までタクシーで行って鹿児島まで飛行機に乗れば、祭に参加できることがわかりました。夜からの踊りと飲み会に参加したあと翌朝一番、伊丹経由の飛行機で神戸に戻り、ゴルフに参加するという強行軍を実行しました。
みんなの介護 経営者は休日でも、従業員のことを考えなければならないのですね?
佐山 「考えなければならない」というのではなくて、自然に考えてしまうのです。なぜなら、スカイマークやそこで働いていただいている社員の皆さんのことをいつも想っているからなんです。誰かに頼まれたからでもなく、自分の心の底から「やりたい」と思うことをするとき、人はどんなに大変なことでも苦にならないんです。そんな仕事に出会うことができて、私は本当に幸せだと思っています。
介護事業に必要なお金は、公的機関が受け持つのは当然。一方でお金の“出し方”を工夫しなければ問題は解決しない
みんなの介護 佐山さんもよくご存知の方だと思いますが、2年前、堀江貴文さんが自身のTwitterで介護士の給与が低いことに触れ、「誰でも出来る仕事だから単価は残念ながら上がらない」と発言して物議を醸したことがありました。これについて、佐山さんはどう思われますか?
佐山 “介護士が誰でも出来る仕事だと思いますか?”私はそう思いません。少なくとも私にはできる仕事ではないと思います。
私の母は3年前に亡くなったんですが、最後の方は認知症が進んで、私の顔を見ても誰かわからないような状態でした。ですから、介護をお願いしていた施設のスタッフの方々には本当に感謝しています。私などには真似のできない、キチンとした仕事をされていたと思います。
みんなの介護 ただ、堀江さんの言うように、介護士に払われる報酬は依然として低く、人手不足にあえいでいる事業者が多いのは事実です。どうすればこの問題を解決できると思いますか?
佐山 私は介護については素人ですから、軽はずみなことは言えませんが、どんな事業の問題点も、それを解決する策は必ず見つかると思います。
現時点で私が思うのは、介護に携わる方々が、自分の仕事にやりがいと誇りを感じられるような仕組みを作るべきではないか、ということです。人から「ありがとう」と言ってもらうことが嬉しいとか、亡くなった親の代わりにお年寄りの力になりたいとか、人によって個別の動機があると思いますが、そうした方々が自然と集まってくるような職場を作ることが重要です。そのためにも、報酬を上げることは必須だと思います。
みんなの介護 政府は介護職員の処遇改善の取り組みとして、約1,000億円規模の財源を投入し、勤続10年以上の介護福祉士に平均して月額8万円相当の賃上げを行うことを閣議決定しましたが、解決策としてはいかがでしょう?
佐山 いや、それでは効果は期待できないと思います。そんな制度があったからといって、「よし、勤続10年になるまで頑張ろう」と思う人が、どれだけいることでしょう。人手不足の問題を10年頑張ればなんて、長く頑張った人にしか支給されない手当で解決しようとするのは、短絡的な措置だと思います。10年ではなく、毎年の手当てを上げる仕組みを作らなければいけないと思います。
もちろん、介護事業を支えるためにはお金が必要です。公的機関がそれを受け持つのは当然のことですが、お金の出し方を工夫しないと問題解決にはつながらないと思います。

老いには個人差がある。そしてそれがどこから生まれるのかというと…
みんなの介護 現在、日本の総人口に占める65歳以上人口の割合(高齢化率)は27.3%で、2030年には31.2%となり、約3人に1人が65歳以上になると言われています。そのような超高齢化社会を生きていくには、何が必要だと思いますか?
佐山 私の母は亡くなりましたが、今年の10月で90歳の父は健在で、週に4~5回はテニスを楽しんで、ときどき試合もしているようです。そんな父が今年、「資格をとったぞ」というので何の資格かと聞いてみたら、介護士の資格だそうです。
どうやら「老い」というものには、個人差がある。では、その個人差というのがどこから生じるのかというと、私はその人の心構えにあるように思うんです。
みんなの介護 心構え…といいますと?
佐山 私は今年の12月で65歳になります。最初に就職した帝人の同期のメンバーとは今でもお付き合いさせてもらっていますが、今でも現役で毎日仕事を続けているという人は、1人もいません。定年を迎えて、みんな引退しているんです。
でも、定年で人生が終わるかといったら、そうではありません。現代は「人生100年」時代です。人生を100年とすると、65歳なんて、フルマラソンで言えば中間点を少し過ぎたところだと言っても良いでしょう。
ただ、定年(ハーフマラソン)をゴールだと思って全力で走り続けてきた人に、「お疲れさま。さっ、ではもう一度、ハーフマラソンを走ってください」と言っても、走る元気はもう出てこないと思います。ですから、今の時代を生きている人は、最初から100歳(フルマラソン)の完走を念頭に生きるべきだと思うんです。
みんなの介護 つまり定年は、単なる通過点に過ぎず、次の新たなスタートを切るきっかけだということですね。
佐山 そうです。私自身は今の自分がどの段階にいると思っているのかというと、ホップ、ステップ、ジャンプという節目があるとして、まだステップの「ス」のところにいるのだと思っています。最後のジャンプはまだまだ先です。
これまで私が手掛けてきた仕事の中で、大仕事と言えるものとの出会いは9年周期でやってきています。1997年のクラウン・リーシングの破綻処理、2006年の阪急ホールディングスと阪神電気鉄道の統合、そして2015年のスカイマークの再建という具合に。それを考えると、遅くとも2024年あたりにまた大仕事に出会えるような予感がします。
過去ではなく未来と比べる。10年後よりも、今はまだ10歳若いのです
みんなの介護 65歳を過ぎてもバリバリと働けるのは、佐山さんに特別な才能や資質があるからなんじゃないですか?
佐山 そんなことはありません。そう思っている人に、私はいつもこう言うんです。「人はつねに10年後よりも10歳若い」と。
40代の人が50歳になる。あるいは50代だった人が60歳になる。そういうとき、多くの人が過去の自分をふり返って「もう40(50)だ、こんなに歳をとってしまった」と嘆きます。10年前に出来たことが、今はもう出来なくなっていると。
だけどそれは、10年前の過去の自分と今の自分を比べるからそう見えてしまうのです。そうではなくて、10年先の未来の自分と比べるべきなんです。40歳の人は50歳になったときの自分、50歳の人は60歳になったときの自分を想像してみる。きっと10年後の世界は、別世界でしょう。でも今は、その10年後より「まだ10歳若い」のです。
10年後にはやる気にならないことでも、今ならやれることは山ほどあります。人はいくつになっても、「10年後より10歳若い」。そう考えてみると、元気になりませんか?もう歳をとったと思うのは、死ぬ直前だけで良い。常に10年後より10歳若いことを忘れずに、頑張っていって欲しいと思います。
撮影:公家勇人
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