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湯浅誠「弱い立場の人が自分の存在を引け目に感じるような社会は、「間違った社会」だと思う」

最終更新日時 2019/03/14

湯浅誠「弱い立場の人が自分の存在を引け目に感じるような社会は、「間違った社会」だと思う」

社会活動家として、日本の貧困問題に取り組んでいる湯浅誠氏。2008年の年末、リーマンショックに端を発した“派遣切り”への緊急手段として、東京・日比谷公園に「年越し派遣村」を設置し、村長を努めた人である。そんな湯浅氏が社会活動家になったのは、障害を持つ兄がいたことが大きな理由だという。幼少時代の湯浅氏の心に、果たしてどんな考えが芽生えたのだろう?

文責/みんなの介護

自己紹介は「バクダン、つくってません」

みんなの介護 社会活動家というと、何だか怖い人というイメージで見られることが多くないですか?

湯浅 多いですよ。社会活動家というのは職業名でも何でもなくて、英語で言えば「Social activist(ソーシャル・アクティビスト)」。欧米では公の場で「私はアクティビストです」と自己紹介する人はけっこう多いんですけどね。

ただ、日本ではいろいろな方とお会いする中、「バクダン、つくってません」なんて説明しなければならないケースもあったりします(笑)。

みんなの介護 湯浅さんが、なぜ社会活動になったのかということについて、とても興味があります。どんなきっかけがあったんですか?

湯浅 きっかけはいろいろだとは思うんですが、突きつめていくと兄が障害者だったことが大きいでしょうね。筋萎縮性の障害があって、私が小学校の低学年のころには補装具をつけても自分の足では歩けなくなり、移動するときは車椅子に乗っていました。

兄の送り迎えをきっかけに、社会について考えるようになった

湯浅 兄が障害者であることに対して、当時は嫌だなと思ったこともありますが、今ではとても良い経験をさせてもらったと思ってます。

ウチは共働きの家だったので、養護学校に通う兄を迎えに行ったりすることがあったんです。当然、私が車椅子を押すことになるわけですが、向かいから人が歩いて来るのが見えると兄は「曲がってくれ」と言うんですね。普通に歩けば10分ほどで帰れる距離なんですが、道を曲がった先でまた人が見えると「曲がってくれ」が始まって、なかなか家に辿り着けない。

そんなある日、兄の「曲がってくれ」を無視して、まっすぐ行っちゃったことがあるんです。自分のアニキが世間に隠れてコソコソしていることに、ずっと疑問を感じていたからかもしれません。

みんなの介護 で、どうなりましたか?

湯浅 そのときの光景は、今でもよく覚えています。前から歩いていたのは、おそらく30代くらいの男性でしたが、細くなった兄の足や、後ろで車椅子を押している子どもの私に物珍しげな視線を向けてきました。今から40年以上も前で、車椅子で移動する人が街にそんなにいなかった時代ですから、なおさら珍しい光景だったのでしょう。

兄は、すごい勢いで怒りました。そして、母が家に帰って来ると、「誠にはもう、二度と迎えにきて欲しくない」と訴えたんです。

みんなの介護 強烈な体験ですね。

湯浅 私には強烈な体験でしたが、兄にとってはそうでもなかったようです。というのも、それから数十年たって兄にこの話をしたら、このときのことをまったく覚えていませんでしたから。

みんなの介護 なぜ、湯浅さんだけ、そのときのことをしっかり覚えているのでしょう?

湯浅 これをきっかけにいろいろなことを考えるようになったからでしょう。兄の気持ちを考えずに行動した私が悪かったのか、それとも障害をものともせず堂々とふるまえない兄のほうが悪かったのかと。  

小学生の頭では答えを出すことがむずかしい問題で、納得のいく結論にたどりついたのは大人になってからです。

それは、こんな結論です。

障害者やその家族が、人目を避けて道を曲がり続けなければならない社会があるとすれば、それは間違った社会である。また、障害者に健常者と同じ気持ちを持って行動することを無理強いするような社会も同様に間違っている。どっちの社会に転んでも、おかしなことになる。  

ゆえに、障害者が健常者に対して負い目を感じることなく、それと同時に健常者が障害者に対して偏見を持たない方向に、社会のほうが変わらなければならないということです。

友人に請われて参加したホームレスの路上支援

みんなの介護 大学在学中から児童養護施設のボランティアを行っていた湯浅さんは、大学院生になってホームレス支援のボランティアをはじめます。どんなきっかけがあったのですか?

湯浅 ホームレス支援は同じ高校出身の川崎哲(あきら)が始めたんですが、私が大学院の試験に受かって入学前のエアポケットのような暇ができたとき、手伝い始めたんです。

みんなの介護 川崎哲さんはNGOピースボートの共同代表で、核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN) 国際運営委員をつとめている方ですね。

湯浅 ええ、そうです。最初の1~2年は中途半端な手伝いしかしていなかったので、川崎たちは「湯浅はアテにならない」と思っていたんじゃないですかね。

ところが、当時はホームレスがそれまでの1.5倍から2倍の勢いで増えていた時期で、途中から「これは本腰を入れてかかわらなければいけないぞ」と思うようになっていました。

ホームレスといっても、一人ひとりにちゃんと名前があるんです。キクちゃんとか、ヤマちゃんとか、固有名詞でお互いを呼び合うようになると情がわいてきて、しばらく姿を見なくなったりすると放っておけなくなるんですね。

夜中に酒を飲みながら話をしているうち、終電を逃しちゃってテントに泊めてもらったこともありました。まぁ、そうやって半分は遊びのつもりでかかわっているうちに深みにはまっていったわけです。

これはホームレス問題ではなく、貧困問題だ

みんなの介護 2002年に湯浅さんは「自立生活サポートセンター・もやい」を設立しますが、どんないきさつがあったのですか?

湯浅 私たちがホームレスの人をどれだけ路上支援しても、ホームレスは減るどころか倍のペースで増えるばかりで活動の限界を感じるようになったんです。

そこで、路上に出る前の、まだアパートなどで暮らしている人を支援することでホームレスを減らすことができるのではと考えたのです。水浸しになるのを防ぐには、開きっぱなしになっている水道の蛇口を締めなければならないというわけです。

みんなの介護 具体的には、どんな方法で支援を始めたのですか?

湯浅 主に、アパートを借りる際の連帯保証人を引き受けるという支援です。

実は、生活が困窮して安いアパートに引っ越ししなければならないというとき、親兄弟や親戚などの血縁関係を失っている人は連帯保証人になってくれる人がいないので部屋を借りることができず、そのまま路上に落ちてきてしまうケースがとても多いんです。

今では、保証人代行をしてくれる保証会社がたくさんありますが、当時は皆無と言っていい状況で。そのため、保証人提供を開始してすぐに申し込みが殺到して、ピーク時には半年待ちというところまでいきました。アパートを借りることができずに困っている人の多さに驚きました。

みんなの介護 湯浅さんが著書『反貧困』(岩波新書)で指摘した、「すべり台社会」を目の当たりにしたわけですね?

湯浅 その頃から、これはホームレス問題なんじゃなくて、貧困問題なんじゃないかと思うようになりました。

というのも、保証人提供と並行して、福祉事務所での生活保護申請に同行するなどの生活支援も行っていましたが、30代くらいの若い人が多く相談に来るようになったんです。彼ら彼女らには、非正規雇用で働いているという共通点がありました。

みんなの介護 非正規雇用者の困窮は後に深刻な社会問題としてクローズアップされますが、かなり早い段階で湯浅さんはそれを“発見”したわけですね?

湯浅 「もやい」はNPO法人で、一般の方からの寄付を主な運営費にしていましたから、どんな支援にお金が使われたのかを細かく報告しなければなりません。

ところが、アパートで暮らしている非正規雇用の人たちは路上で暮らしているわけではないので、ホームレスと呼ぶことはできないのです。

そこで、「見えない貧困」を「見える貧困」に変えることで、社会全体で貧困問題の解決に取り組むきっかけをつくろうとして立ち上げたのが「反貧困ネットワーク」でした。

日本中が家族団らんモードになる年越しだからこそ、派遣村を開く意味があった

「年越し派遣村」を日比谷公園につくった理由

みんなの介護 「反貧困ネットワーク」が発足したのは2007年10月でしたが、その翌年の2008年9月にリーマンショックが起こって“派遣切り”問題がテレビや新聞などのマスメディアでも報じられるようになりました。湯浅さんはその年の年末、「年越し派遣村」を設けて非正規雇用者の支援を始めますが、どうして迅速に対応できたのでしょう?

湯浅 実はホームレスの路上支援には年に3回、大事な時期がありまして、それがゴールデンウィークとお盆、そして年末年始なんです。

世間が休日モードになって、工事現場などで日雇いの仕事を得ている人も休みになるだけではなく、日本全体が家族団らんモードになるのもこの時期なんですね。

身寄りを失って路上で生活している人にとって、それは精神的にとても辛い時期でもあります。なぜなら、休日を利用して家族旅行をしたり、こたつに入ってミカンを食べながら紅白歌合戦を見ている家族が日本中にあふれているのに、自分にはそれができないわけですから。

そこで、路上ボランティアに携わる人の定番の年末の過ごし方は、屋外に設置されたスクリーンで紅白歌合戦と「男はつらいよ」を上映し、焚き火にあたりながらホームレスの人たちと一緒にそれを見ること。そういうことが、私がホームレス支援を始めるずっと前から伝統的に行われてきたんです。

ですから、「年越し派遣村」というのは、名前を変えて日比谷公園に場所を移しただけで、私たちが毎年やってきたことと基本的には同じなんです。

みんなの介護 日比谷公園は開園から3年後の1905(明治38)年、日露戦争の講和条約に反対する市民らが暴徒と化した「日比谷焼き打ち事件」が起きた場所です。ロケーションとしては最適でしたね?

湯浅 いや、そこまで深くは考えていませんでした。日比谷公園を選んだ一番大きな理由は、厚生労働省の庁舎の目の前にあったからです。

実は2008年という年は、暦の関係で年始が遅い時期に来る年だったんです。2019年も1月3日が木曜日になって、9日くらい休んだ人が多かったと思いますが、確か2008年も同じ木曜だったと思います。

そこで私たちは厚生労働省を訪ね、今年の年末年始は長くなるから、役所の生活困窮者のための窓口を開けてほしいと陳情していたんです。ところが、それを受け入れてもらえなかったので、抗議の意味も込めて日比谷公園をその場所に選んだわけです。

みんなの介護 その抗議が厚労省を通じて首相官邸まで届いたのでしょうか、湯浅さんは翌年の2009年10月、政権交代後の副総理をつとめていた菅直人氏に請われて内閣府参与に就任します。

ただ、すでに長きに渡ってお話しいただいていますので、ここから先の話は次回公開の「中編」に譲ることにしましょう。読者のみなさん、お楽しみに!

自分を人質にして約束を取り付ける

みんなの介護 内閣府参与への就任を請われたとき、すぐに決断できましたか?

湯浅 いや、すぐにはできませんでした。一緒に活動してきた人たちに話を聞いても、「政府に取り込まれるだけだからやめたほうがいい」という意見と、「せっかくの機会だから受けたほうがいい」という意見が半々でしたから。

とはいえ、それまで政府に対して制度の改善を要求してきた立場の私が、「あなたの言う方向に改善しますから手伝ってほしい」と頼まれて、それを断るのはおかしいんじゃないかと考えて、お引き受けすることにしたんです。

みんなの介護 就任にあたって、湯浅さんは3つの条件を菅副総理と約束したそうですね。説明していただけますか?

湯浅 その条件とは、次の3つです。

①実効性のあるワンストップサービス(その場で決裁し、居所確保できる)

②行政機関の年末年始開庁

③国の責任による在宅確保を年末に向けた主要対策に据える

①のワンストップサービスとは、ひとつの場所でさまざまなサービスが受けられる環境や場所のことで、これは近年、貧困支援に限らず、子育てや高齢者施策の場面でも言われるようになり、浸透しましたよね。

②については、「年越し派遣村」の翌年から国立オリンピック記念青少年総合センターで「公設派遣村」が置かれることになりましたけど、長続きはしませんでした。

③は、紆余曲折があって「年末に向けた主要対策に据える」というわけにはいきませんでしたけど、2013年に制定された生活困窮者自立支援法に「住居確保給付金の支給」という項目が入って法制度化されました。

政策実現度を自己採点すると、私の力が及ばず、不十分なところもあったけれど、一定の成果は得られたということになるでしょうか。

みんなの介護 湯浅さんが内閣府参与に就任したのは2009年10月26日ですが、翌年の2010年3月5日で辞任し、その後、同年5月10日に再任用されています。なぜこのように、出たり入ったりすることになったのですか?

湯浅 そもそも内閣府参与というのはアドバイザーですから、部下もいなければ自由に使える予算もありません。できることが非常に限られているんですね。

ですから、入るときに先ほど述べたような3つの条件を提示して、「これに取り組みます」という約束を取り付けておくことが重要なんです。自分を人質にして、制度化を推進するわけですね。

みんなの介護 二度目の再任用のときは、どんなことを約束したんですか?

湯浅 「パーソナル・サポート・サービス」と言って、生活・就労に困窮する求職者のために全国に求職者総合支援センターを設置して支援を行う寄り添い型の人的サービスのモデル事業です。

人も予算も十分には使えませんから、事業が縮小になったり、取り止めになってもおかしくない状態でした。

これが厚生労働省のモデル事業に移され、予算も下りて制度化されれば軌道に乗ったと言えるんですが、それが実現したのが2012年4月のことで、私はようやく内閣府参与の任から離れることができました。

税金を使うということは、反対者のお金も使うということ

みんなの介護 政府の政策立案に携わる仕事と、社会活動家の仕事は「社会をより良いものにする」ことが共通の目標です。でも、仕事の進め方には大きな違いがあったのではないですか?

湯浅 おっしゃる通りです。民間で何かを始めるときは、基本的に「この指止まれ」で人を集めて事業を動かしていきます。私たちの民間事業では寄付を募ることが多いですが、この場合も企画に賛同してくれた人のお金を使うわけですから、やはり「この指止まれ」でしかお金は集まらない。

一方、行政の制度や政策をつくる場合、使うお金は税金です。賛同者のお金だけではなく、「私はこの制度をつくるのに反対だ」という人のお金も使って制度づくり、政策づくりをしていくということになります。賛同してくれる人の税金だけ使って、反対している人の税金は使わないということはできません。

みんなの介護 しかも、一緒に働く政府の中にも、湯浅さんがやろうとすることに反対する人がいるわけですね?

湯浅 ですから、強固に反対している人に対して、せめて強固に反対しないように促すとか、賛成しないで良いからこちらの足を引っ張らないでくださいとお願いするとか、そういう努力をしていかねばなりません。

みんなの介護 民間で活動するときとは、まったく別方向の努力なわけですね?

湯浅 そう、民間の場合、5人の仲間を10人に増やすとか、リーダーを育成してボランティアをまとめてもらうといった、「内側から外側へ」組織を広げていくのに対して、行政はその逆です。

「内側から外側」へと政治家や官僚の中に仲間を増やしていきつつも、同時に「外側から内側」への働きかけをして合意に近づけていかなければなりません。

みんなの介護 民間と行政と、ふたつの組織の違いを目の当たりにしたことは、湯浅さんにとって有意義な経験だったのではないですか?

湯浅 ええ、実に有意義でしたね。内閣府参与に就任する前の私にとって、霞ヶ関にいる官僚の人たちは得体の知れない存在でした。

こちらからコミュニケーションをとろうにも、役所の窓口担当者に書類を渡すか、建物の外からトラメガ(拡声器)でこちらの主張を一方にがなりたてるしか方法はありません。

ですから、参与に就任して具体的な政策決定プロセスに関わったことは、発見と驚きの連続でした。どんな人がどんな思いで働いているのか、具体的な顔と名前と役職を知った上で見ることができたわけですから。

みんなの介護 では今後、湯浅さんが再び政府の中に入って活動することはあり得るのですか?

湯浅 あるかもしれないし、ないかもしれない。私を呼ぶかどうかは、私以外の人たちが決めることですし、もし呼ばれることがあったとしても、その内容と権限で判断することになるでしょうね。

民間で活動しているときは、「政府は実行力があっていいな」と思っていたけど、実際、政府の中で仕事をしてみると、「民間のほうが自由に動けていいな」と思いました。

結局のところ、どっちもどっちですね。民間でなければできないこともあれば、行政でなければできないこともあるんです。

今は、官僚の人たちと築いた信頼関係を財産にして、民間での活動に重きを置いていくのが自然なやり方だと思っています。

まがい物のアクティブラーニングでは「自分の頭で考えた、自分の言葉」を語れる人間は育たない

大学にいる学生は、これまで会ったことのない種類の学生だった

みんなの介護 湯浅さんは2014年度から法政大学の教授に就任しましたが、官僚との出会いと同様、学生たちとの出会いも有意義なものでしたか?

湯浅 ひとことで言えば、衝撃的な出会いでしたね。

私は障害者やホームレスといった社会の底辺にいる人たちとは密に接してきて、内閣府参与になってからは短い間でしたけど国の方向性を決定するような重要な位置にいる人たちとも知り合うことになりました。

そんな私にとって、大学生は両者の中間にいる人たちということになりますが、彼ら彼女たちがまったく未知の存在だったということに気づきました。

みんなの介護 でも、ボランティアに参加する大学生のことは、よくご存知なんじゃないですか?

湯浅 そういう、いわゆる「意識高い系」の学生と違って、教室にいるのは社会問題などに関心を持ったことのない、ごくごく普通の大学生がほとんどなんですよ。

みんなの介護 そんな学生たちとの出会いが、どんな点で衝撃的だったんですか?

湯浅 リアクションペーパー(通称リアペ)というものがあって、授業のあとに感想を書いた紙を集める習慣があることが、まず軽い衝撃でした。

ですが、本当の衝撃はそのあと、学生たちが書いたリアペを読んだときにやってきました。なんと、8割の学生が同じようなことを書いていたんです。

「私は今日までこう思っていましたが、こういうことを学び、考えが変わりました。これからはこういうことに気をつけて生きていきたいと思います」というデフォルト三段論法。なんとも自分の言葉っぽい“他人の言葉”なんですよ。

みんなの介護 一説によると、リアペは教員の能力を大学側が判断する材料になるだけでなく、リアペの出来で学生の成績をつける教員もいたりするそうですね。

湯浅 私もそのことに気づいて、2回目の授業からは匿名で書いてもらうことにしました。「授業がつまらないと思ったら正直に『つまらなかった』と書いていい」と言って。

そしたら、1回目の授業のときとまったく変わらなかったので二度驚いたんです。

2年目は、最初の授業で「私は教えません」と宣言しました

みんなの介護 なぜ、学生が書いたリアペはデフォルトの定型文になってしまうのでしょう?

湯浅 おそらく、それが一番エネルギーを使わない書き方なんですよ。授業の感想を真面目に書こうとしたら、授業に集中して臨まなければならないし、自分の考えたことを適確に言語化しなければいけません。そういうのをすっ飛ばして、定形フォーマットを脳にダウンロードして書くと、デフォルト三段論法の文章ができあがる。

ただ、これは単に要領のいい学生が多くなったというだけではありません。問題なのは、こういう文章を書く子どもを褒めてきた大人が世間にはたくさんいるということなんです。

みんなの介護 生徒が教師の話を受動的に聞くのではなく、能動的に発言する「アクティブ・ラーニング」は、既に随分前から日本の幼稚園や小中高校の学習指導要領に取り入れられているはずなのに、不思議ですね。

湯浅 おそらく、そこで行われているのはまがい物のアクティブ・ラーニングなんです。

先生は「自分の頭で考えなさいよ」とは言いながら、「こう答えないと良い点をあげないよ」と思っている。で、生徒は自分の頭で考える前に、学校の先生の顔色を見て、先生の喜びそうな模範解答を答えてしまうんです。そして実際に、それをできる子が良い点をもらう。

そうやって、先生に忖度するのがうまい子どもが学校で良い成績を収め、偏差値の高い大学に進学して、社会に出て行くとしたら、日本の未来は暗いですよ。

ですから、2年目には、最初の授業で「私は教えません」と宣言して、完全に参加型の授業に切り換えました。そうすると、リアペの内容も「自分の言葉っぽい他人の言葉」ではなく、「自分の頭で考えた、自分の言葉」になっていきました。

みんなの介護 法政大学では、理想的な授業をしている先生を選んで表彰する「学生が選ぶベストティーチャー賞」を毎年実施していて、湯浅さんは2年連続で選ばれたそうですね。

湯浅 法政大学の任期は2018年度までで、つい先日、最終講義をしてきたんですが、この5年間はとても良い勉強になりました。授業でも、「君たちより私のほうが多くのことを学んでいるよ」と言っていたくらいです。

みんなの介護 再び大学教授になるという可能性はありますか?

湯浅 あるかもしれませんね。給料をもらって勉強させてもらえるところがあるとすれば、大学の教員はとてもありがたいポジションです(笑)。

かつての「日本型雇用、日本型福祉社会」は崩壊しつつある

みんなの介護 湯浅さんは2度目に内閣府参与になったとき、就任の条件として次の目標を掲げています。

①女性や若者の就業率の向上

②家計支出(子育て・教育・住宅費用)の低減

③子ども(子育て世帯)やひとり親世帯および日本全体の相対的貧困率の低減

これらは現在、安倍内閣が少子高齢化への取り組みとして目標にしている「一億総活躍社会の実現」を先取りしていたように見えます。湯浅さんが蒔いた種が芽を出したということでしょうか?

湯浅 いえいえ、私が蒔いた種というより、超高齢化および人口が減少している日本の社会は、そういう方向へ向かわざるを得ない状況になっていて、私はただそれを指摘しただけです。

さかのぼれば、2008年の福田内閣のときに開催された社会保障国民会議でも「全員参加型社会」という目標が打ち出されていますし、私が内閣府参与を努めたときの鳩山政権でも、「みんなに居場所と出番を(社会的包摂)」という言葉でその目標が表現されています。

安倍政権の「一億総活躍社会」は、いわばそのバリエーションとも言えるでしょう。世の中の客観的な構造というのは、誰が総理大臣を務めたとしても変わらないので、言葉の表現やテイストに違いはあっても、同じことをやらざるを得ないんです。

みんなの介護 湯浅さんは、今の世の中の構造をどう捉えていますか?

湯浅 ひとことで言えば、高度経済成長期以降の「日本型雇用、日本型福祉社会の崩壊過程」であると捉えています。

つまり、現役世代は家族と企業で支え、引退世代は社会保障で支えるというモデルが成り立たなくなってきたということです。

そもそも、正社員として働く世帯主1人の給料で、家族全体の生活費だけでなく、子どもの子育てや教育、住居などのすべてを賄っていたのが不思議な状態なんです。

これは、急速に経済が発展していた高度経済成長期だからこそ実現できたモデルで、90年代以降、国も企業も余裕を失った結果として家庭の支える力も弱っていき、誰からも支えられずに生活困窮に陥る人が増えていった。

みんなの介護 誰からも支えられなくなった人とは、湯浅さんがこれまで支援してきたホームレスなどの人たちですね?

湯浅 支えを失っているのは、ホームレスだけに限りません。

働き過ぎでメンタルヘルスを害した労働者、就職氷河期世代の未婚男女、親が高齢化した障害者や引きこもりの人たち、リストラされた中高年男性とその家族、貧困家庭に育った子どもたち、家族に支えられなくなった低年金・無年金の高齢者、親の介護や子育て負担から充分な就労機会を持たない人たち、廃業せざるを得なかった自営業者など…。

「貧困」の世界は今や、これほど多様になっているんです。

「共助」の力が“溜め”のある社会をつくる

みんなの介護 支えを失った人たちを救うには、どんな社会をつくらねばならないのでしょう?

湯浅 地域福祉の課題として、「自助、共助、公助のベストミックス」ということがよく言われます。

自分でできることは自分で行う「自助」、お互いに助け合う「共助」、行政が施策として行う「公助」を地域の実情に応じて適切に組み合わせていこうというわけですが、その組み合わせのバランスは今後、変えていかざるを得ないでしょう。

みんなの介護 「自助」と「公助」については、あまり期待できませんしね。

湯浅 おっしゃる通りです。

「自助」を強くしろといっても、生産年齢人口の減少と高齢化という問題を抱えている日本で、個人の収入があがり続けていくという状況は考えにくいですよね。「若く、健康で、働き盛りの日本人」は今後、かなりの少数派になっていきますから。

「公助」についても、同じことが言えます。国も地方自治体の財政も火の車ですから、手厚い社会保障を前提とした北欧型福祉国家を目指すような体力もない。

結局のところ、頑張れそうなところは「共助」の部分なんです。

みんなの介護 お互いがお互いを助け合う社会は、実現可能なのでしょうか?

湯浅 かつて私は『反貧困』(岩波新書)という本で、そのような社会を「“溜め”のある社会」という言葉で表現しました。

“溜め”とは、人を外界から守ってくれるバリアのようなもののこと。

お金があれば、病気や失業をしてもすぐに生活に困らない。そのときお金は、金銭的な“溜め”としての機能を持ちます。

お金がなくても、豊かな人間関係に恵まれていれば、悩んだときに相談できたり、困ったときに頼ったりすることができる。そのときに“溜め”の機能を持つのは、人のつながりということになります。

地域の多くの人々がコミュニティに参加して、このような“溜め”を生み出すことが、取りこぼしのない社会をつくる鍵になるでしょう。

みんなの介護 金銭的な“溜め”は、金額という具体的な数字で把握することができますが、人のつながりのような“溜め”は可視化が難しい面がありますね。

湯浅 そうですね。「人がワイワイ集まったところで何がプラスになるんだ」と批判する人には、その価値がなかなか見えにくい。

ところが、地域で住民交流が活発に行われているところでは、医療や介護などの社会コストが下がるというデータが、最近、少しずつ出始めています。

つまり、「いくら儲かったか?」だけに注目するのではなく、それまでかかっていた社会コストを「いくら減額できたか?」ということも見ていくことが「共助」の力を生かすためには重要なのです。

人と人とのつながりは、物事を前進させる推進力になる

「こども食堂」はなぜ、2年で7倍も増えたのか?

みんなの介護 湯浅さんは2018年12月、NPO法人「全国こども食堂支援センター・むすびえ」を設立して、地域の子どもに無料か低額で食事を提供する「こども食堂」の活動を支援していますが、これは「共助」の社会づくりと関係のあることですか?

湯浅 もちろん、大いに関係があります。

そもそも「こども食堂」は、貧困の子どもに食事を提供することを目的に設立されていますが、「地域食堂」とか「みんな食堂」という名称で呼ばれているところもあるように、子どもの貧困対策だけでなく、地域住民が集まる拠点づくりという二本柱で運営されているケースが多いんです。

「むすびえ」の前身団体だった「こども食堂安心・安全プロジェクト」で調べてわかったことですが、2016年には都道府県に319ヵ所しかなかった「こども食堂」は、2018年3月の時点で2,286ヵ所まで増えました。わずか2年で7倍になって、今もどんどん増え続けている。

みんなの介護 「共助」の力が働き始めている証拠ですね。

湯浅 そうですね。かつては自治会の「子ども会」が、子どもと地域を結ぶ組織として機能してきましたが、地域コミュニティ力の低下や少子化や学校の統廃合などを背景にその数は激減しています。大人が子どもと接する機会は圧倒的に減っていて、だからこそ、多くの省庁で「地域共生」が謳われるようになってきました。

都市では、保育園の建設に反対する地域住民が運動を起こすなんてことがすでに起こっていますよね。その人たちが子どもの遊び声を工場や道路などの「騒音」と一緒に考えてしまうのは、子どもと接触する機会が圧倒的に減っているからです。自分の子や孫の声を「騒音」と思う人なんて、いないでしょう?

みんなの介護 子や孫が遠いところに住んでいるお爺ちゃんお婆ちゃんも、「こども食堂」に行けば、子どもと自由に接することができる。「こども食堂」が地域のぬくもりと生きがいを生み出す拠点になるわけですね?

湯浅 そうなんです。

インタビュー前半で、最初はホームレス支援に中途半端に関わっていた私が、ホームレスのおっちゃんたちの顔と名前を覚えるようになって以降、活動にのめりこんでいった話をしましたよね。それと同じことです。

内閣府参与になって、トラメガ(拡声器)で抗議の意を表すしかなかった霞ヶ関の官僚の人たちと一緒に仕事をすることで、信頼関係を築くことができた。それも、これと同じ。

人と人とのつながりが、物事を前進させる推進力になるんです。

「こども食堂」がここ数年で急速に増えているのは、子どもをハブにした地域交流というモデルがいろいろな地域で成功しているからです。

みんなの介護 少子化、高齢化、人口減少に直面している日本ですが、それでも世の中は良い方向に向かっていくと思われますか?

湯浅 私はそう考えています。2020年に団塊の世代と言われる人たちすべてが75歳の後期高齢者になる日がやってきて、2050年にはその子どもである団塊ジュニアも75歳になります。

このふたつの高齢化の波を乗り越えるには、「共助」の力を強めていくしかありません。私は、それは可能だと思うし、日本の未来はそう暗いものではないと思っています。

撮影:公家勇人

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07