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水無田気流「自粛生活の中で洗い出された問題点は、より良い学びや働き方のための貴重なデータです」

最終更新日時 2020/06/15

水無田気流「自粛生活の中で洗い出された問題点は、より良い学びや働き方のための貴重なデータです」

新型コロナウイルス感染拡大防止を目的とする緊急事態宣言の発出以来、世の中の様相は一変した。社会生活様式における新ルールが次々生まれ、これまで一部で導入されていた“テレワーク”や“リモートワーク”も一気に広まることとなった。今回、「賢人論。」もリモートインタビューを実施。「社会学は人の気持ちを取り上げる学問」と語る水無田気流氏(みなしたきりう/國學院大学経済学部教授)にご協力をいただいた。テーマは「新型コロナ危機がもたらしたこと」。この経験を“新しい未来”につなげるために、私たちは何を見つめ直し、どのような心構えで臨むべきなのかを伺った。

文責/みんなの介護

リモートの導入は“私的インフラ”の整備が課題

みんなの介護 東京では3月末から不要不急の外出に対する自粛要請が出ていました。それから5月25日の非常事態宣言解除に至るまでの約2ヵ月間、水無田さんはどのように過ごされていましたか。

水無田 私と夫は在宅勤務、4月から中学に入学した息子も遠隔授業を受けています。家の中で3人がヘッドセットを着けてパソコンに向かっている光景は、まるでディストピア小説みたいでちょっと不気味でした(笑)。

みんなの介護 水無田さんは國學院大学で教鞭を執っておられますが、リモートによる遠隔授業は経験されたのでしょうか。

水無田 はい。このインタビューの後にも行うことになっています。実際にやってみて思ったのですが、遠隔授業はインターネット環境や必要スペースの確保などの私的インフラの整備が前提なので、まだまだ誰もが簡単にやれる状況ではありませんね。
画面に映り込んでしまう背景や生活音などのプライバシーにも気を使わなければなりませんから。

自粛生活は埋もれていた問題や働き方を見直すきっかけになった

みんなの介護 対面授業にはないメリットはありましたか。

水無田 少人数のゼミ形式の授業は、画面上の学生の反応を見ながらやれるので、お互いの接続環境さえ整っていればそれほど問題はありません。でも例えば、300人の受講生を相手にする授業などは、実際に行ってみると問題も多々ありました。人数が多くなれば受講環境も自ずと多様になるので、音声の大きさや動画資料の受信状況など、毎回学生に問題の有無を確認しつつ、手探りで調整を繰りかえしています。

そもそも、基本的に学生の側にはミュート(消音)にしてもらわないと参加者全員の生活音が入り混じって収拾がつかなくなります。

とはいえ、対面授業とは異なり、反応もなく受講生の理解度を測らないまま授業を続けていくことはできませんので、毎回レポートやリアクションペーパーをネット送信してもらうようにしました。すると、対面授業のときよりも、学生が授業の内容をどのくらい理解したのかが把握しやすくなりました。言葉で具体的にフィードバックをしてもらうことで、それまでわかっているだろうと思っていたことが、意外に理解されていなかったことにも気づくことができました。

また、学生たちがどういう点に疑問を抱いたのかも把握できて、授業そのものを見つめ直す良い機会になっています。今後、対面授業に戻っても、ここで得た経験はより良い授業を行ううえで貴重なデータになると思います。

ほかにも、これは他業種でも多くの方が指摘されていますが、これまで私たちは、例えばオンラインなら簡単に済ませられることを、会議で何時間もかけて決めていた…などという無駄にも気づかされました。もちろん、対面による討議を通じて見えてくる問題もあり、オンラインで行うことが最適解とは言い切れません。それでも、必ずしも必要ではないことを洗い出すきっかけにはなりました。

また、既婚女性にとって長時間勤務がネックになっていた業種などでは、今回のリモートワーク導入によって就業継続がしやすい状況となったと思います。

みんなの介護 社会全体の働き方改革を推進する意味では有意義だったと。

水無田 はい。そのように捉えています。

マスメディアもネットも情報過多。それらの真偽を見極める力と適切なつき合い方を養うことが必要不可欠

テレビには感情を煽るための仕組みと構図がある

みんなの介護 自粛生活中、テレビから垂れ流される結論の見えない新型コロナ関連情報には辟易とさせられました。一部の検証番組を除いて、ほとんどが推測や憶測や悲観的な意見ばかり。こういうメディアのあり方を、水無田さんはどのように受け止めていましたか。

水無田 情報は過多なのに、本当に欲しい情報はないんですよね。実は某民放テレビ局の審議委員を務めていて、最近もワイドショー型のショーアップされた報道の在り方に関する問題について、批判的な検証を含めて提言をさせていただきました。

そもそもスポンサードで成り立っている民放は視聴率の数字を取ることが命題です。視聴者の感情に寄り添った内容の番組のつくり方をすれば、視聴者の共感を得られて、それが数字にも表れる。ところが、その方法論をパンデミック(感染爆発)のような危機的状況下でも多くの番組が採用した結果、視聴者の不安を煽るようなものが溢れる事態になってしまってはいないでしょうか。

テレビのワイドショーには、視聴者の感情的な反応を呼び込むような仕組みと構図があります。その構図の中ではメインキャスターの語る視聴者の感情に寄り添う言葉に対して、コメンテーターが解説を加え、またそれにメインキャスターが視聴者が望みそうな言葉や正論で返す、という決まりなどはその典型ですね。例えば社会的不正義に対しては怒りが、楽しい話題には笑いが、そして今回のようなパンデミック下で意識されるのは、視聴者の「不安」でしょう。

みんなの介護 なるほど。たしかに普段目にする機会が多いのはそういったやり取りですね。

水無田 不安に寄り添うことが必要な場合もあるのですが、必要以上に煽るのは問題です。この方法論はこれまでも、例えば医療系エンターテイメント番組などでも使われてきました。番組内で極めてレアなケースをことさら大袈裟に取り上げたために、特に異常もみられない受診者たちで待合室がいっぱいになるという現象を、実際に私も目の当たりにしたことがありました。

今回は国内だけでなく全世界が直面している危機です。なおかつ、治療薬もワクチンもない。体調が悪くてもPCR検査すらなかなか受けられない状況でした。私たち個々人にできることが限られているのはとても歯がゆいですが、焦ったところで仕方ない。そういった客観的・科学的対処法がないことに対して皆が不安を抱いているところに、さらに追い討ちをかけるように不安に寄り添いすぎるような番組が放送されています。これでは火に油を注いで、社会不安に拍車をかけるだけです。

みんなの介護 ワイドショーの構図についてのお話がありましたが、マスメディアのあるべき姿についてはどうお考えでしょうか。

水無田 今、こういう状況だからこそ、マスメディアは情報を客観的に見極めて丹念に裏づけを取らなければなりません。そのうえで、わからないことは「わからない」という事実と、「なぜわからないのか」という根拠も含めて発言する勇気を持つことが必要です。

私の子供を見ていて気がついたのですが、どうやら若い人たちにはSNSなどで動画を発信している人がいっていることと、ニュースキャスターがいっていることなどがすべて横並びに受け止められているのだということです。テレビは公共性の観点から、通常あまり極端な主張はしにくく、ある意味予定調和ででき上がっているため、子どもたちの世代にはつまらなく感じられてしまっているようだとも実感しました。

でも、だからこそ私の子どもには「ネットは情報の真偽が不確かでも流せてしまうんだよ。情報の確証を取るのは簡単なことではないのだから、きちんと見極められるようにならないと危ないよ」と、注意深く説明しています。

新型コロナと「インフォデミック」、情報拡散力はSARSの68倍

水無田 ネットで流れる情報の真偽を含む「ネットリテラシーの問題」で言うと、今回の新型コロナ問題は「インフォデミック」という現象も引き起しています。

みんなの介護 インフォデミックとは?

水無田 インフォメーション(情報)とエピデミック(感染症などの蔓延・流行の発生)を接合した造語で、ネットに氾濫した噂やデマが現実社会に影響を及ぼす現象を意味しています。今回の状況を受けて、SNSの破壊力がむき出しになっており、非常に怖いと感じました。

新型コロナに関する情報の拡散力は2002年の重症急性呼吸器症候群(SARS)のときの68倍と言われています。
記憶に新しいトイレットペーパー騒動の発端も、SNSへの「中国からの輸出が止まる」というデマの書き込みで、それに対する「在庫はある」「落ち着け」といった善意の書き込みが情報爆発を誘発。結局は買い占めに発展してしまいました。中には冷静に「品切れは起きない」とわかっていながらも、多くの人が買い占め行動に走ることを予期して「先手を打って買い占めをした」という人もいました。

ネットの活用によって情報流通の時間が短縮された分だけ発信される情報の量は爆発的に膨らんでいます。この一件は、ネット社会の中でどう情報を選び、どうやってつき合っていくのかが問われる時代であると教えてくれたように思っています。

社会の“当たり前”に潜んでいる問題に目を向ける

みんなの介護 そもそも「社会学」とは、どのような学問なのでしょうか。失礼ながら、今一つ漠然として捉えきれないのですが。

水無田 社会学は、端的に言うと「人と人が共にあることを考える学問」です。私たちは朝から晩まで、さまざまな行動を取っています。欠伸をしたり伸びをしたりくしゃみをしたりといったものは生理的な反応ですが、今、こうして私が取材で話している行為は、役割や職業として「社会的意味」を成している。人間の行動の中から社会的意味を成す行為を抽出し、科学的に検証するのが社会学になります。

みんなの介護 ご著書(『社会を究める』若新雄純・小川仁志/共著)では、幼い頃から集団行動が苦手で、園児が同じ制服を着て帰りのバスを整列して待っていることに恐怖を感じて卒倒した、と書かれています。その感覚をほかの人にうまく伝えられないもどかしさから読書の虫になり、やがて社会学と出会ったそうですね。

水無田 社会学というフィルターを通して考えると、集団における行動は日常的な慣れや習慣によって成り立っていることがわかります。たとえば、私が大学の授業で次のように学生に質問したとします。

「君たちは私が教室に入ってきたとき、全員が机を前にテキストを広げて座って待っていてくれていますが、それはどうしてなの?」

すると、ほとんどの学生はぽかんとして答えられません。なぜなら、それが当たり前であると、“教室ではこう振る舞うべきなのだ”と、子どもの頃から何年もかけて訓練されて習慣化していることで、考えなくなっているからです。

静かに授業を聞いてくれるのは、もちろん教える側としては大歓迎。ただ、皆が当たり前だと思っていることには、実は根深い問題をはらんでいる場合もあります。

みんなの介護 根深い問題とは具体的にどういったものでしょうか。

水無田 数年前、某医大が入試の際、女子の点数を減点していた、という事件がありました。

その背景として大学病院における劣悪な労働環境が挙げられます。勤務医は「当直」という勤務シフトがあり、週40時間の労働時間の制限を受けません。そのため、宿直勤務の翌日にも日勤となるなど、ハードワークが常態化しています。つまり、「いずれ結婚して、家庭責任を取らなければならない女性には勤まらないから」という考えから、あらかじめ男子を多く入学させるために、致し方なく点数を操作していた、というのが医大側の言い分でした。

それだけでも開いた口が塞がらないのですが、ネット上でも「仕様がない」「これは必要悪」との意見が見られました。さらに、医師の人材紹介会社の調査では、この減点を「理解できる」「ある程度理解できる」と回答した医師が65%に上る結果となるなど、問題の根深さについて、改めて考えさせられました。

合理的に考えればおかしなことが覆せなくなる「制度的惰性」

水無田 この医大が行った行為(点数操作)は女性差別であることは言うまでもなく、「法の下の平等」を規定した憲法14条にも違反しています。さらに、これまで医学の権威や医師の職業威信は、基本的に生得的地位(性別や身分などによる地位)ではなく業績原理(努力の結果として得た知識や能力)をもって社会的地位が配分される、という近代社会の原則によって認められてきました。今回の事件はそれにも反しています。

みんなの介護 国家や社会を裏切る行為になるということですね。

水無田 はい。なにより、今は高齢化が進んでいますから、医療現場に優れた人材が集まってくれないと多くの国民が困ります。

社会的に重要な領域で最適な資質を持つ人ではなく、つまるところ“使い勝手のいい人”が優先して選ばれて医療現場で従事する状況が続けば、やがては医療分野の水準がおとしめられる可能性も否定できません。

結局のところ、日本国憲法、近代社会理念、公共性に反してまで守られてきたのは「国民の利益」ではなく、医療のブラックな職場環境にほかならなかったんです。

多くの人たちが慣習やその場の「座の論理」にのまれてしまうと、意外に気がつかなくなっている事実があります。合理的に考えればおかしいことが慣習になって覆せなくなる問題を社会学では「制度的惰性」と言います。

社会学には、そのような理不尽や非合理性に対し、「それはおかしいんじゃないか」と指差す機能があるんです。

公正さが人々の感覚を変える。社会全体の規範や通年は変化するものです

想像力を養うために学びがあり、知識がある

水無田 大学の授業でマイノリティ(社会的少数者)の問題を取り上げても、なぜ、それが批判されるのか、必ずしも皆がその理由を理解して共有できるわけではありません。こういった問題について、私はすぐに理解や共感を求めなくても良いと思っています。ただ、ある事柄について“おかしい”と考える人たち、痛みを覚える人たちがいるということに対する「想像力」を養うために学びがあり、知識があるのだということだけは繰り返し説明しています。

想像力といえば、少し前、ある長寿バラエティ番組の30周年記念特番で、80年代後半から90年代にかけて人気を博した、同性愛者をおもしろおかしく描いたような風体の男性キャラクターを復活させて抗議が殺到し、大炎上したことがありました。昔は「おもしろい」と思われていたギャグが、四半世紀の時を経るうちに社会通念が変化した結果、視聴者が笑えなくなってしまっていることに制作側が気づかなかった事例です。まさに、想像力が時代の変化に追いついていなかったことが問題でした。

みんなの介護 その炎上騒動はとても印象に残っています。一方、そういった抗議のせいで「テレビがおもしろくなくなった」という声も上がりました。それについてはどのようにお考えですか?

水無田 そういった意見は、これまでマジョリティ(多数派)の側の視点でしかものを考えてこなかった人から寄せられたものではないでしょうか。LGBTQなどマイノリティの意見を「めんどくさい」「そんなことを考えている人の方がおかしい」と切り捨てたり、女性差別的なCMを見て「こんなに爽やかな表現がどうして不快なのかわからない」と言い切れる人たちにとって、そういった反応は普通なのかもしれません。

その人たちはこれまでジェンダーやセクシュアリティについて、幸いにも思考する機会を持たずに済んだのだと思います。マイノリティの訴える痛みや不快感に対し、「おかしなことだ」と主張するだけで済む…ということは、見方を変えれば社会の中で“特権的な立場”にあるということでもあります。しかし、多くのマジョリティに属す人たちはその特権性に気づきません。

個人的問題から社会を考える「社会学的想像力」

水無田 近年、勇気を持って声を上げるマイノリティが増え、それを支持する意見も増えています。アメリカでは「あらゆる性差別は不当で、認めるべきではない」という声が9割を超えた、という調査結果もあり、公正さが人々の感覚を変えつつあります。

今まで当たり前だったことがこの先もそうであり続けるとは限らず、社会全体の規範や通念は変化するという前提に立って、物事をとらえ続けなければなりません。

しかし、多くの人が間違いに気づいていても、それを変えるためにコストがかかるならそのまま保持しようとする「制度的惰性」のようなケースもあります。裏返せば、チェンジコストをかけても、それ以上の報酬を得られると判断できれば社会は変化を許容する。だから、社会学者は科学的検証を行わなければならないわけです。

社会の問題なのか、個人の問題なのかを正しい知識を持って検証し、社会全体の構造と結びつけて考える。ミクロな個人的問題と社会全体をつなぎ合わせて考える──これをミルズという社会学者は「社会学的想像?」と言いました。私はその社会学的想像力を働かせ、日常を丹念に注視しながら生活することを常に心がけています。

在宅介護推進の前に、待遇改善と医療介護連携が先決

水無田 高齢医療や介護の脱施設化がトレンドとしてあるのですが、これは高齢化が急速に進行する中、「病床数を減らして医療費を削減したい」という政府の思惑を前提としたことでしょう。

国としては、旧来の性別分業モデルを前提に、世帯主とされる夫が働いて、妻が介護(ケアワーク)を分担すれば経済活動にもさほど影響はないだろうと考えているのでしょうが、現実はそうではありません。最近では主たる家族介護従事者の3分の1が男性だというデータもあり、仕事と介護の両立の難しさから、やむなく離職をするケースも増えています。

みんなの介護 働き盛りの男性の介護離職の問題ですね。

水無田 介護を必要とする親を抱えている世代は40代から60代。この世代は介護生活を終えても再就職は厳しく、そう遠くない将来に待つ自分自身の老後の経済不安にも直面します。これは個々の努力だけでどうにかできる問題ではないんです。

「住み慣れた我が家で、穏やかに息を引き取りたい」という願いはもちろん尊重されるべきです。しかし、それを叶えてあげるには在宅介護の環境整備はもちろん、訪問介護士などのケアワーカーの待遇改善や地域医療との連携などを推し進める必要がある。

現状、日本では医療従事者の地位の高さに比べ、ケアワーカーのそれはあまりにも低く、給与も全産業ベースの平均に比べて月額あたり11万円くらい安い。これでは在宅介護を支援するケアワーカーの担い手不足を解消するのは難しいのではないでしょうか。

ケアワーカーの専門性はもっと評価されてしかるべきで、医療従事者との連携も必要なのですが、現状ではそれほど重視されていないという指摘もあります。そのため、現場のケアワーカーが日々の介護の中で感じた“異変”が医師に正しく伝わらず、結果として治療方針などにもうまく反映できていない…などというのは、大変にもどかしい事態だと思います。

個々の介護環境も整っていなければケアワーカーの地位も確立されていない。医療との連携も機能しているとは言い難い。そういう状況の中でやみくもに在宅介護を推進するというやりかたは、あまりにも現実を無視していると思います。

専門性を認め、しかるべき職業訓練を行う。それが介護職の地位向上の第一歩

みんなの介護 介護職の地位がいっこうに低いままなのはなぜだと考えますか。

水無田 根本的には、「介護」が誰でもできる仕事だと思われているためでしょう。加えて新規参入の業者が多く、そこで働くスタッフも非正規雇用割合が非常に高いので、専門性を高めるための研修の機会なども不十分との指摘もあります。

ただし、雇用市場全体においても被雇用者の4割近くは非正規雇用。これは自己責任というより国が行った構造改革がもたらした結果といえます。

みんなの介護 水無田さんは「介護」という仕事の専門性はどこにあると捉えていますか。

水無田 社会学では介護のように相手に対して感情的な寄り添いや“共感”が求められる仕事を「感情労働」と呼んでいます。感情労働には、自分の感情をコントロールして、その都度で適切な感情を表出することが求められます。さらに介護は、ニーズに応じて身体的なケアも行うことで要介護者の生活の質を高めていくことが眼目です。

感情労働という観点から見れば、介護職は相手の感情に寄り添いつつ決して引きずられず適切なケアを施すという、高度な感情コントロール術とコミュニケーションスキルが求められる、とても専門性の高い仕事といえます。

ですが、そのようなスキルの専門性が認められておらず、しかるべき職業研修なども蔑ろにされている。まずはそこから改善すべきではないでしょうか。

結婚の自由化と子育ての社会化が日本の少子化対策の鍵

日本で一般的な「結婚」と「子育て」は世界的に見ればガラパゴス

みんなの介護 新型コロナによる経済の停滞は長期化が予測されています。また、このまま貧富の格差が拡大し、ことに若者の貧困が加速すれば、少子化にも歯止めが効かなくなる、という悲観論も聞かれます。この国の未来を左右する「少子化問題」の解決策について、どのようにお考えですか。

水無田 日本では法律婚と同居開始が同時なことが多く、結婚して1年後くらいに1人目の子どもが生まれています。実はこれ、世界的に見るとガラパゴスなんです。

先進諸国では、結婚と同居開始、出産のタイミングはバラバラ。例えばスウェーデンでは女性の第1子出産年齢は29歳。平均初婚年齢は33歳。必ずしも「結婚」が「出産」の前提にはなっていない。しかも、法律婚であろうとなかろうと、生まれた子どもたちの間には一切の差別もありません。

日本の場合、「家族が子どもを育てなければいけない」というプレッシャーが非常に強く、前提として“結婚しないと子どもを持つことが許されない”世の中になっています。これは単に“世間の目が厳しい”といった社会規範の問題だけでなく、例えば選択的未婚の母親は税制上でも損をしています。加えて、非嫡出子に対する有形無形の差別も根強い。一方、出生率が回復している先進国を見ると過半数が婚外子。子育ても社会全体でするものだ、と理解されています。しかし同時に先進国では旧来の性役割規範や家族像が強固で、言い換えれば出産・育児のハードルが高く、子育て世帯の負担が高すぎる国ほど少子化が深刻化しています。

みんなの介護 「両親がいて子どもがいるのが“普通”の家庭である」という、かつての社会規範が、今では子どもを持つことの障壁になっているのですね。

水無田 はい。本当の意味での結婚の自由化、子育ての社会化が日本の少子化対策の鍵だと私は思っています。

中高年男性の感覚が、子育ての現実と乖離した制度をつくる

水無田 ほかにも、結婚していたとしても、立場によって子育て支援が受けられないという問題があります。例えば、出産一つをとっても、会社員など、所属している組織がある人は申請すれば出産手当金が受け取れます。しかし、私が子どもを産んだときは非常勤講師という「非正規雇用」の立場であったため、出産手当金を受け取ることはできず、健康保険から出産育児一時金が支給されるのみでした。

おまけに出産は病気ではないため、入院中のちょっとした検査費用も全額自己負担。その分も確定申告で認めてもらえず、当時は本当に大変な思いをしました。

子どもがまだ小さい頃に、こんなこともありました。最寄り駅に近い認証保育所の夜間保育を利用し、専門学校で夜の部の授業を行っていたのですが、確定申告の際に「託児は経費に認められない」という現実に愕然としました。子どもを預けないことには働くことができないのに、それに掛かった費用は経費として一切認められず、結局当時は多いときで収入の半分が託児費用に消えてしまうという事態にもなりました。正直、納得できませんでした。

託児や家事代行サービスは、先進国ではいずれも税制控除対象です。日本でもこれまで何度かベビーシッターの費用などを控除対象にしようという議論はありましたが、いずれも却下されて実現していません。

みんなの介護 それはなぜなんでしょうか。

水無田 政策や法制度など、重要な意思決定の場が、圧倒的にジェンダー不均衡なのも大きな要因でしょう。例えば、日本の国会議員に占める女性割合は、参院で2割、衆院で1割と圧倒的に低い。このため、どうしてもマジョリティである中高年男性、ないしは彼らの志向に近い女性議員が多数派となり、結果的に旧来の家族像や性役割を前提とした思考が払拭されにくくなっているのを感じます。

例えば、「子どもは母親が自らの手で育てるのが当たり前」「家族がいるのだからベビーシッターなんてとんでもない」「『家族』という枠から外れた婚外子を育てるのに、なんで税を控除しなければならないんだ」、などという発想で政策決定されれば、当然ながら「今」出産・育児に奮闘している国民のニーズとは齟齬(そご)が生じるのは自然です。思考が昭和時代のままで停止しており、まったく想像力が働いていないといえるでしょう。

私はそういった問題について、さまざまなメディアで訴え続けているのですが、マスコミにしても意思決定の場にいるのは50代以上の男性が主流です。残念ながら、なかなか議論の俎上(そじょう)にさえ乗らないのが実状です。これを変えていくことの一助になればと、及ばずながら極力このようなインタビューなどにもお答えしているわけです。

「居場所」のない男、「時間」がない女

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07