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武内和久「介護を「福祉」の枠組だけで考える時代は終わりましたこれからの介護は、社会全体を考えるプラットフォームになります」

最終更新日時 2019/11/18

武内和久「介護を「福祉」の枠組だけで考える時代は終わりましたこれからの介護は、社会全体を考えるプラットフォームになります」

かつて、バリバリの厚生労働省キャリア官僚だった武内和久氏は、退官3年後の2018年、『介護再編 介護職激減の危機をどう乗り越えるか』(ディスカヴァー携書)を刊行し、元官僚とは思えない革新的な提言で大きな話題を呼んだ。かつて介護保険制度を設計する側だった武内氏は、今の介護業界をどのように見ているのだろうか。現在、地元・福岡でコメンテーターとしても活躍してきた武内氏が上京したタイミングで、緊急インタビューを試みた。

文責/みんなの介護

介護=介助+看護は、時代遅れ。「脱・介護」を。これからは教育・医療・地域など、さまざまな文脈の中で語られる時代

みんなの介護 厚生労働省時代の武内さんの最後のキャリアは、福祉人材確保対策室長として、斬新なアプローチで介護現場の人材確保に尽力されていました。厚労省を退職されて4年。現在の介護の現場をどのように見ていらっしゃいますか?

武内 介護業界は、このまま時代の変化に取り残されていくのではないかと、強い危機感を抱いています。

私は官僚の世界に約20年、民間企業に5年勤務し、東京でも、地元福岡でも活動してきました。いわば、政府・民間/東京・地方/国内外の八次元の目で実践してきましたが、あらゆる産業が劇的に変わりつつある中で、介護業界はいまだに旧態依然としたシステムで運営されている。また、中央と地方では現場の状況が違うのに、全国一律のルールで規制している点にも違和感を覚えます。

「介護」の持つ意味合いは、飛躍的に大きくなってきていますね。「介護」をめぐる状況は、より面白くなってきている。そんなポジティブな印象も持っています。

みんなの介護 介護そのものよりも、介護をめぐる状況が変わってきているということでしょうか。

武内 そうですね、可能性は無限です。「介護」という言葉は、「介助」と「看護」の合成から生まれたと思いますが、その概念は時代遅れ、実態とそぐわなくなってきています。

これまでの「介護」は、「福祉」という狭い枠組の延長線上の発想から抜け切れていない。しかし、現在の「介護」は、生活・仕事・教育・医療・地域・住宅・交通・テクノロジーなど、さまざまな文脈の中で再定義(リフレーム)するべき時代になりました。これからの介護は、さまざまな社会制度を見直すうえでの、重要なプラットフォームとしての役割を担っていきます。

介護の「介」は、介助ではなく、媒介の「介」になるべきです。サービス、人材、資金、様々な社会資源の結節点という意味になります。介護する人される人、どんな人も望まない「孤独」から解放される時代に「介護」は不可欠です。

一方、介護業界、特に社会福祉法人の人たちは、歴史を積み重ねてきた「介護」の在り方、措置時代からの介護のやり方、マインドを今も大事にされているようです。それも大事ですが、新たな時代の介護へと脱皮することも大事です。「伝統は革新の連続である」という言葉のとおり、概念を変えていきながら、介護業界も時代の変化に合わせて変わる必要があります。いわば「脱・介護」なのです。

介護は業界内で自己完結するのではなく、多くの分野との「越境」を目指すべき

みんなの介護 介護業界が変わっていくためには、何が必要なのでしょうか。

武内 私は厚労省時代、介護の制度を作ってきた側にいたから痛感しますが、国が制度を変えれば介護業界の体質が変わる、ということはありません。業界自らが進化することを期待します。これからの介護業界がより良い方向へ変わっていくためには、次の3つのキーワードが重要になるでしょう。

1つめのキーワードは「越境」です。ここでいう「越境」とは、在宅と施設介護のサービスの垣根を越え、保育や障害サービスの垣根を越え、さらには他産業やオンライン・オフラインのヒト・モノ・カネが自由に行き来する状況を想像しています。

これまでの社会保障行政では、閉じた世界で物事を考えがちでした。閉じられた世界で、社会保険という巨大精密な構造の中で、  自己完結的にヒト・モノ・カネを回すという発想が強かったですね。

医療の世界では確かに、それが十分成り立っていました。医療従事者の人たちには業務独占が認められていて、医療行為は基本的に医療機関内で行われ、医療保険では混合診療が認められていませんでしたから。いわば医療は、空間的にも、経済的にも、人材的にも、自己完結が成り立つ世界なのです。

介護保険は、そんな医療保険をモチーフにして制度設計されています。しかし、介護の国家資格である介護福祉士に業務独占が認められていないように、開放系のシステムなのです。介護は様々な生活・教育・住宅・交通・テクノロジーなどの産業やサービス、文化や住民、価値観とも不連続につながっています。

つまり、介護業界だけで自己完結しようとしても、所詮は無理な話。にもかかわらず、介護業界の枠内で何とか持ちこたえよう、回そうという自己完結的な発想では、限界があり、本質と離れてしまう。

みんなの介護 だからこそ、他業界との越境が必要なんですね。

武内 そのとおりです。自己完結できないのであれば、むしろ積極的に、外部との交流をはかったほうがいい。たとえば、運送・宅配業者と業務提携を行い、トラックが空の状態で走るときに、在宅の高齢者をケアするための物資を届けてもらうとか。生保・損保業者とのコラボレーションで、長生きリスクに備える新たな金融商品を開発するとか。

あるいは、高齢者施設そのものを人的交流の場にしてしまってもいいですね。施設の一部を認証保育園、子ども食堂、公民館、小規模スポーツジム、市役所出張所などとして開放し、高齢者施設を地域のプラットフォームとして活用してもらうのです。

高齢者施設がいろいろな人、いろいろなお金、いろいろなサービスの行き交う場所になり、従業員同士も相互に交流する仕組みをつくれば、介護の現場もより楽しく、働きやすく、活性化するのではないでしょうか。今は、地域のイベントや祭り、カフェの形で交流しているケースも多いですが、第一歩に過ぎません。

大事なのは、新たなビジネスを生むことではなくて、人材もノウハウも資金も総動員して、介護という「システム」を持続発展させていくということです。そこにデジタルやグローバルという観点も、上手に組み込んでいくことは大事な課題です。これらによって、「地域のプラットフォーム」へと介護の現場が昇華していきます。

スタッフ一人ひとりの「経験」を「学問」としてどう体系化するか。介護には「第二のナイチンゲール」が必要とされてる

「アートからサイエンスへ」の実現で介護職に対する社会的評価が高まる

武内 介護業界を変えるための2つめのキーワードは「アートからサイエンスへ」です。

介護現場における日常業務はこれまで、介護スタッフ一人ひとりの勘と経験に負うところが大きかったといえるでしょう。そのため、経験を積んだベテランほど業務に精通していきますが、いわばアートのように職人芸的な世界であり、そのノウハウは本人にしか蓄積されず、他のスタッフと共有するのは難しい状況でした。

そのうえ、ベテランになるほど自己流が蓄えられ、仕事の進め方や姿勢をめぐって他の従業員との間で確執が生じ、それが職場環境を悪化させるケースも少なくありません。学校で学んた知識が現場で生かされないリアリティショックもあります。

個人の経験により修得された、言語化しにくい知識を「暗黙知」または「経験知」といいます。暗黙知は体系化できないため、他者に教えることも、学問として進化発展させる、つまり普遍性を持たせることが難しいといえます。

また、体系的学問として成立していないため、その専門性も低く見られがちです。介護現場での人材育成が思うように進まず、介護職に対するプロとしての社会的な評価がいまだに低いのは、業務の多くが個人の暗黙知に依存しているのも要因です。

この暗黙知に対して、言葉で合理的・科学的に説明できる知識を「形式知」といいます。いうまでもなく、医療や看護の世界は、利用者ひとりひとりは違えど、体系的な知を構築しています。

今、介護業界に求められることは、個々の介護スタッフが蓄積している暗黙知を形式知へと転換し、かつ、学問として体系化すること。アートからサイエンスへの転換です。もちろん、個々の人の違いに応じて、サイエンスだけでは成り立たず、そこに思いや感覚といったアートの部分がなくなるわけではありません。その両者を行ったり来たりして、互いに研ぎ澄まされる、そういう関係性が望ましいのです。

プロフェッショナル養成のために、東大に「介護学」講座を

みんなの介護 なんだか、難しそうですね。

武内 もちろん、簡単なことではありません。しかし、現在「サイエンス」として確立されている看護師の仕事も、かつては現在の介護のように、暗黙知に支配されていました。その暗黙知から形式知への転換をはかり、今日の看護学の基礎を築いたのが、あのナイチンゲールです。

19世紀半ばに活躍した彼女は、「看護」とはどんな仕事で、社会にどんな価値をもたらすかを学問的に体系化し、看護におけるプロフェッショナルとは何かを確立することに一生を捧げました。ナイチンゲールのおかげで、それまで医師の補助役であり、患者の世話係でしかなかった看護師は、医療現場に欠かせない専門医療従事者として、社会に広く認知される段階へ進んだのです。

今後、介護現場で第二のナイチンゲールが現れ、介護が新たなサイエンスの次元にどう引き上げていくか。それが出来れば、高齢化先進国日本の英知として、世界に伝播するスピードも迫力も強くなると確信しています。

例えば、介護関連企業や関連団体の出資による、産学連携の「介護学」寄附講座を東京大学などの知の拠点に開設し、実践者・研究者による知と技の体系化を進めてもらう、という手もあります。

東大に介護学の権威が誕生し、その先生を頂点としたアカデミックな研究体制が確立されれば、介護学の社会的評価は高まり、国際的にも発信され、「介護」の社会的な立ち位置は変わってくるのではないでしょうか。

スタッフ本人が成長していく、キャリアパスをどう描けるか

みんなの介護 なるほど、東大に介護学の寄附講座ができれば、「介護」の社会的地位の向上に効果的かもしれませんね。

武内 介護の現場を変える3つめのキーワードは「自分が成長できる仕事」。

先ほどの暗黙知・形式知の話とも重なるのですが、介護が学問として体系化されていないこともあり、介護従事者にとっては「自分のキャリアパスが見えない」「成長が実感できない」という課題も感じます。

介護福祉士を目指し、専門学校でせっかく2年間学んだとしても、実際に就職した現場は既存の慣習に縛られていて、学校で学んだことが必ずしも活かせる職場にはなっていない。

何が正解かわからないし、介護スタッフとしてステップアップしていく道程も見えないから、自分が現在、介護のプロとしてどのくらいのステイタスにいるのかもわからない。そもそも、「自分が成長している」という実感さえ得られにくいのです。こんな状況では、モチベーションが上がらないのは当然で、仕事と人生に「甲斐」が感じられず、それが介護現場の高い離職率の一因と考えています。

今の介護現場に強く求められるのは、働く人に自分の成長が実感できる道筋を提示すること。そのために経営者・管理者が大切に人を育て、後押しすること。キャリアパスの形成と支援という作業を、先ほどの「暗黙知から形式知へ」と併行して進めていかなければいけません。

みんなの介護 「自分は正しい方向に成長できているんだ」という実感が持てれば、仕事にももっとやりがいが出てくるでしょうね。

武内 介護現場における、きめ細かな研修プログラムの実践も必要でしょう。

医療関係者はご存じだと思いますが、医療界では医師や看護師向けの学会・セミナー・研修会が頻繁に開催されていて、自己研鑽のプログラムがきわめて充実しています。本人に向上心さえあれば、最新知見や施術スキルを随時更新し続けることが可能。ところが介護の世界では、そういったキャリアップのための機会はあまり設けられていません。こんなことでは、介護業界も介護事業者も、人材育成に後ろ向きと言われても仕方ありません。

たとえばフランスでは、介護を含め、「11人以上雇用している企業はすべて、総人件費の1%以上を職員研修に使わなければならない」という法律があり、恒常的に研修プログラムが稼働し、「人づくり」に投資することが社会のルールとなっています。

言うまでもなく、介護業界は、「人材」こそが資源であり、財産。それを磨き上げる文化と仕組みを今こそ業界を挙げて、つくらなければ間に合いません。現場の矛盾と複雑性に満ちた世界の中で、迷ったり、疲弊したりするスタッフの方は少なくない。そうした方に、働きがい、やりがい、そして、介護従事者としての「在りがい」をもっと提供しなければ、介護の未来はありません。

失われた「地域の介護機能」を、行政がもう一度再生しようとしている

みんなの介護 厚生労働省は2012年から、地域包括ケアシステムの構築を推進しています。地域包括ケアシステムは、医療や介護が必要だったり、一人暮らしだったりする高齢者が、住み慣れた町でずっと暮らし続けられるよう、地域全体で支えていくシステムですね。厚労省OBである武内さんは、この試みをどのように見ていますか。

武内 この方向性は時代の要請です。同時に、巨視的な見方をすればある種の“先祖返り”に見えて仕方ありません

わが国にはそもそも、お年寄りや子どもたちを地域全体で見守るシステムが、古くから自然発生的にありました。

そのシステムが崩壊したのは、逆説的にいえば、わが国の福祉行政がそれだけ拡充していったから。小さな子どもたちの世話は保育所や学童保育などのプロに“外部化”され、お年寄りの世話も老人ホームや介護施設などのプロに“外部化”されたため、それまでその地域で育んできた子どもやお年寄りを見守る力が急激に失われてしまった面があります。

言ってみれば、外食ばかりを続けるうちに料理を忘れてしまった人、のようなものでしょうか。

そうやって、福祉行政・制度で地域の見守りや互助という“地域の力”を弱めてしまった面がある。今度は施策でそれを仕組みとして再生させようとしている。専門分化や制度化というものを進めることが、結果的に地域の紐帯を弱くするという矛盾。制度を作り、動かす者として、この「大いなる自己矛盾」にも思いを致す必要があります。

いったん壊れかけたものを再生することは、そう簡単な道のりではない。ただ、「地域包括ケア」を掲げることで、職種間の連携、情報共有が着実に進んでいる、そのパラダイムの転換には成果を上げてきていると考えます。

みんなの介護 なるほど。いままで福祉行政を取り仕切る側だった武内さんの発言だからこそ、説得力がありますね。では、重ねてうかがいます。地域包括ケアシステムをうまく稼働させるには、どうしたらいいでしょうか。

武内 既に色んな切り口で進められています。私なりの視点で加えるとすれば、まず1つ目が「家庭介護」。家族介護ではなく家庭介護です。

「在宅介護をしている家族が損をする」状況が生まれている

みんなの介護 家族介護ではなく家庭介護とは、どういうものでしょうか。

武内 要介護者を家族が在宅で介護する場合、わが国の介護保険制度では、家族の行うサービス対価に金銭は給付されません。この点については、介護保険を導入するとき、大きな議論を呼び、家族への金銭給付は見送られましたが、財政的な問題、「家族なら扶助し合う、それが日本の美風」という理由も、あるいはサービスの質を確保するという理由もあったでしょう。

しかし、この家族給付について、議論し直す時期に来ているんじゃないかと思います。というのも、即物的な言い方をあえてすれば、「家族が在宅介護している家族ほど損をしている」という状況が生まれているからです。

今、自宅で高齢者を世話されている方は、いろいろなものを犠牲にしている現状がある。仕事を辞めざるを得なかったり、休みがちになったり、友だち関係を犠牲にしたり。外から状況が見えない密室の中で、孤立し、親子関係さえ犠牲にしているケースまであります。

みんなの介護 確かに、老老介護しているようなケースでは、悲惨な事件にまで発展する例も少なくないですね。

武内 そうなんです。だからこそ、高齢者を在宅介護している家族にばかり大きな負荷をかける状況は、そろそろ改善されなければいけません。

では、どうするか。例えばドイツのように、在宅介護している家族の行うサービスに金銭を給付する方法もありますね。家族を介護することで金銭が給付されるのであれば、介護離職したせいで経済的に追い込まれるケースも改善されるでしょう。その選択の余地はあってもいい。

あるいはフィンランドのように、「家庭介護」を認めてもいいですね。

先日、フィンランドに視察にいってきましたが、あちらではユニークな介護制度が導入されていました。要介護者の家族への金銭給付があるのですが、給付対象には家族だけでなく、近所の他人も含まれると聞きました。

「遠くの親戚より近くの他人」ということわざがありますが、その発想ですね。ご近所のお隣さんを「介護者」として事前登録しておけば、ご近所さんが高齢者を散歩や買い物に連れていったり、食事を用意したり、掃除・洗濯をしてあげたりと、何らかの生活支援を行うたびに、給付金が支給される、そういう柔らかな発想もあるでしょう

今後わが国では、介護分野での人材不足が年々深刻化していきます。だとすれば、家族やご近所さんを介護スタッフとして本格的に活用していくというアプローチをどう大きくしていくのか。家族介護、もしくは家庭介護については、制度設計の論点はありますが、改めて真剣に議論する価値のある課題と考えます。

「一生独身」の人が増えている今、福祉行政の発想も「家族」から「一人」へと変えていくべき

一人暮らしの高齢者サポートに最新テクノロジーを取り入れよ

みんなの介護 家族や近隣住民に金銭を給付して介護をお願いするというのは、大胆かつ画期的なアイディアだと思います。武内さんは、他にもいろいろとアイディアをお持ちのようですね。

武内 私は最近、「孤を味わう」というキーワードを提唱しています。孤独の「孤」、すなわち、一人でいることをもっと楽しむべきだということです。

医療にしろ、年金にしろ、日本の社会保障制度はいつまでも「世帯」を基準に考えがちです。介護に関しても、「要介護になった高齢者に家族がいる」という前提で物事が考えられている。

しかし、これからはもう、そんな時代ではありませんね。結婚するかしないかは個人の自由だし、あえて一生独身でいることを選択する人も急激に増えています。また、夫や妻に先立たれて一人暮らしになる高齢者も多い。だとすれば、社会保障制度も今後は「世帯」ではなく「一人」を発想の原点に置くほうが理にかなっています。

みんなの介護 そういえば、“おひとりさま”という言葉も、すっかり市民権を得ているようですね。

武内 孤独の「孤」というと、さびしいイメージがつきまといますが、誇り高い孤独というものもあります。「孤立」とは異なります。私の母は81歳、福岡一人暮らしですが、介護サービスも使いながら、一人で暮らしていますね。ちなみに、私の地元である福岡市は、全国に20ある政令指定都市の中で、高齢者独居率、集合住宅率が最も高いレベルにあるそうです。

これからは一人暮らしの高齢者が増え続けていく時代ですから、社会全体としても、それに対応したサービスをもっと開発していかなければなりません。たとえば、今年の前半、金融庁の老後資産2,000万円問題が物議をかもしましたが、今後は一人暮らしの高齢者でも運用しやすいような、老後資産形成用の金融商品も必要になるかもしれません。

また、高齢者の一人暮らしを支えるには、テクノロジーによるサポートが不可欠でしょう。たとえば、各種センサーを駆使した見守りサービスは絶対に必要だし、高齢者の買い物や通院をサポートする、ある種のモビリティー・配送システムの開発も不可避でしょう。

あるいは、高齢者の孤独を癒やすコミュニケーション・ロボットのニーズも高まるかもしれません。

長い「おひとり」期間を前提として仕組みを制度・サービスの両面で考えていく時代に入りました。

みんなの介護 介護関連の人手不足が解消されない以上、テクノロジーで代替できる部分は、ある程度テクノロジーでカバーするしかありませんね。

武内 私がいま注目しているのは、八王子市にある北原国際病院が政府の「新技術等実証制度(規制のサンドボックス制度)」を利用し、NEC日本電気株式会社などの協力を得て、「デジタルリビングウィル」の実証実験を始めていること。

「デジタルリビングウィル」とは、顔・指静脈・指紋といった本人確認のための生体認証とセットで、自分が意識を失ったときにどんな治療をどのように受けたいか、延命治療や臓器提供の意思を含め、デジタルデータとして病院に事前に登録しておくシステムのようです。

この登録を済ませておけば、身寄りのない一人暮らしの高齢者が意識不明で救急搬送されたとき、生体認証で本人確認を行ったうえで、自分が受けたい医療を適切に受けることが可能になります。

みんなの介護 なるほど。一人暮らしのお年寄りが意識不明で救急搬送された場合、病院側は治療方針が決められずに困惑する、という話をよく聞きますが、デジタルリビングウィルの登録が広く普及すれば、本人の希望する医療がすみやかに受けられるわけですね。

武内 北原国際病院では、デジタルリビングウィルを登録した患者さんのデータを一元管理して、健康管理やオーダーメイドの医療提供、さらに買い物など日常の困り事にも対応する「トータルライフサポートサービス」も始めています。

先ほど、「これからは介護施設や医療施設が地域のプラットフォームになる」というお話をしましたが、そのわかりやすい一例がここに見られると思います。

こうしたデジタル面での医療介護のプラットフォーム化は、中国などに比べると、日本は愕然とするほど、遅い。日本こそが、それをリードすべきなのです。

地域包括ケアで重要なのは、お年寄りの生活を支える「プライマリ・ケア」

みんなの介護 その他、わが国が地域包括ケアシステムを推進していくうえで、どのようなことが必要になってくるでしょうか。

武内 地域包括ケアの中核を担う医療として、プライマリ・ケアが必須です。すなわち、家庭医として、高齢者の日常的な健康管理に加え、体調が悪化した高齢者を総合的かつ継続的に診断・治療をするためには、広角で複眼的な視野を持つ総合診療医の存在が欠かせません。そこで、これからの医学教育には、良質な医師、現在の制度では総合診療専門医を数多く育成することが求められるでしょう。

また、個人的には、以下の3点はもっと加速と強化が重要だと考えています。1点目が在宅医療の拡大、2点目が薬剤師の有効活用、3点目が予防歯科の推進です。

みんなの介護 1つずつ、解説をお願いします。

武内 まず在宅医療。この調子じゃ間に合わない。急がないと!という危機感を持っています。

すべての高齢者が病院施設に入居できるわけではありませんから、緩和ケアやターミナルケアを含め、在宅で療養を受ける高齢者が増えていきます。

現場を見ると、病棟でドンと構えて、最新の機器を使って治療を施す、医療介護ヒエラルキーの頂点にいるお医者さんが、在宅医療に、大量に、すんなり入っていけるか。医師には、いままで以上に多職種のコミュニケーション能力、変化を察知する能力が求められるようになる。まだまだ在宅特有の診療能力や経営能力までの力を育む環境は十分ではありません。医学部教育を含め、意識や能力の変化をどうフォローしていくかが重要になります。

2点目は、薬剤師の有効活用です。個人的に勿体ない!と思っています。現在、薬剤師として登録されている人は、男女合わせて約30万人。この人たちはわが国の貴重な医療人材であり、医療資源であり、大きな財産です。

しかし現状では、これらの人々を有効に活用できているとは、とてもいえません。「モノからヒトへ」という旗は振られているが、まだまだ。世界を見ても、日本の薬剤師ほど能力が封印されている例はない。厚労省の制度改革の力学を思うと、薬剤師・薬局行政へのビジョンが薄すぎる。

調剤薬局であれだけ多くの大切な人材が薬のやりとりをしているのではなく、もっと外に出ていって市民や高齢者に適切な服薬指導を行ってもらうなり、薬を処方しすぎる医師に意見してもらうなり、やってもらうべきことはもっといろいろあるはずです。薬局の機能はもっと地域のヘルスケア拠点として拡充できるはずです。そこは官民で考えていかないと。

みんなの介護 そうですね。確かに、「日本は薬剤師後進国で、医療現場における薬剤師の立場が弱すぎる」という話を聞いたことがあります。

武内 そして3点目が、予防歯科医療の推進です。今日、予防医学の重要性が喧伝されていますが、すべての予防が本当に有効とは言えない。遺伝的体質や生活環境は人それぞれ違うのですから、万人に有効な予防医学などあり得ません。

そんな中、万人に有効性が高い予防医学は予防歯科医療です。歯はある日突然重度の虫歯になることも、歯が抜けることもない。ステップを踏む意味で、予防が見えやすいし、因果関係もつかみやすい。特に高齢者の場合、認知症予防なども意味も含め、口腔ケアが極めて重要だとはっきりデータに出ているわけですから、急ピッチで行うべきです。

先手を打って、すべての国民に予防歯科医療を推進する。この分野を新たに保険適用するのか、あくまで自費か、しっかり検討するなどして、子ども時代からの受診とメンテナンスを義務づけるべき。

健康診断でもチェックされない現状はおかしい。それが将来的に、日本国民の健康寿命の延伸、認知症の予防、要介護者の減少、医療費の抑制へとつながっていくはず。今こそ国策として、歯科医療行政にがんばってもらいたいです。

厚生労働省は宿命的に他のどの省庁よりも忙しい

みんなの介護 厚生労働省の改革若手チームが公表した『厚生労働省の業務・組織改革のための緊急提言』と、その概要版『厚生労働省を変えるために、すべての職員で実現させること。』は、社会に大きな衝撃を与えました。働き方改革の本丸であるはずの厚労省で、こんなブラックな働き方が強制されていたとは……。今さらですが、厚労省OBの武内さんは、あの提言をどう受け止めましたか。

武内 あの内容は誇張でもなんでもなく、事実ですよね。20代30代の頃、私も平均して午前2時くらいまで働いていました。国会対応のときは午前4時とか。若い頃、夜に出かけないから、繁華街のネオンは見たことがありませんでした。入省2年目のときの上司の係長は、年中座りっぱなしのため、尻に褥瘡ができたくらいです。

みんなの介護 なぜ、そんなに忙しいのでしょうか。

武内 仕事量に対して、圧倒的に人員が足りないからです。

国家公務員の数の上限が決められたのは、「行財政改革」の旗印のもと、1981年に発足した第二次臨調(第二次臨時行政調査会)において。ところが、それ以降、厚労省(当時は厚生省と労働省)の仕事量は激増します。

国民の高齢化率は当時の9%から27%まで3倍に上昇し、社会保障給付の金額も総額25兆円から140兆円へと5.6倍に。こんなにも仕事量が増えたのは、厚労省だけ。にもかかわらず、職員数は削減していかなければならない。その分、職員一人当たりの仕事量は激増し、早晩パンクするのは誰の目にも明らかでした。

また、所管業務が国民生活に直結しているという質の問題があります。答弁に少しでも齟齬(そご)や不用意さがあると、四方八方から矢が飛んできます。不用意に揚げ足を取られないためには、国会答弁に完全武装で臨まざるを得ず、準備と詰めに恐ろしく時間がかかります。

加えて、利害調整が至難の業。厚生労働行政においては、医療福祉の事業者はもとより、企業経営者、労働組合、富裕層、貧困層の利害は相反関係にあります。利害と価値観の「相克」があるのです。しかも高度成長期と違って、日本経済という「パイ」は小さくなる一方ですから、結局は「損」の押しつけ合いになります。利用者負担なのか、国庫負担なのか、報酬を下げるのか…。

ほぼすべての政策で与野党が対立するため、医師会などの利益団体や、マスコミ対応を含め、いつでも周到な根回しが必要。厚労省は宿命的に、扱うべき仕事量が多すぎるのです。

厚労省の職員は忙しすぎる。弱者や困窮者に共感できなくなるのが最も怖い

みんなの介護 厚労省がそれほどまで忙しいのは、やはり好ましいことではありませんね。

武内 もちろんです。忙しすぎるのは、次の3つの点で大きなマイナスになりますから。

1つ目は、業務上の負荷がかかりすぎるため、生産性の負のスパイラルに陥ってしまうこと。業務上の一定の負荷であれば、負荷がかかるほうが生産性は上がります。火事場の馬鹿力のようにアドレナリンが分泌されて、集中力と判断力が高まるからです。

しかし、負荷が一定水準を超えると、疲労のため作業効率は一気に下がり、生産性が落ちると、やり残した仕事が増えて負荷が大きくなり、さらに疲弊して……と、悪循環に陥ります。

2つ目は、忙しすぎて外部との交流がなくなること。職員にとっては、情報量も人脈も乏しくなり、視野が狭くなって世の中の動きから乖離してしまいます。一方、外部の人にとっては、厚労省職員はきちんと話を聞いてくれないと感じ、敷居が高く感じられるため、新たな案件が論じられる機会も減っていきます。

3つ目は、職員が独善的になること。「自分たちはこんなに頑張っているんだから」という思いが強すぎると、「こんなに頑張っている自分たちが間違うはずはない」「こんなに働いてない人にとやかく言われたくない」と、思い込むようになってしまいます。そうなると、弱者や困窮者に対する共感力まで失われてしまう。これが一番怖いですね。

みんなの介護 厚労省若手チームの人たちも、そういった危機感から、今回提言を公表したんでしょうね。

武内 後輩たちは勇気を振り絞って、よく公表したと思います。

超高齢化が急速に進行しているわが国は、これからどうなっていくのか。「日本の未来」のかなり大きな部分が、厚労省の双肩にかかっています。後輩たちには、日々の忙しさに押しつぶされることなく、自分たちの信じる道を歩み続けていってほしいと期待しています。私も色んな形で応援していきます。

介護ビジネスに関わる人たちは大同団結して、業界の権利を主張すべき

介護現場の環境が改善されなければ超高齢社会に明るい未来はありません

みんなの介護 最後に、介護業界に向けてのメッセージがあるそうですね。

武内 はい。私は厚労省の官僚時代、日本医師会や日本看護協会など、関連する業界の職能団体とさまざまなコンタクトを取り、ある意味さまざまなプレッシャーも受け、強い緊張感の中で働き、政策をつくってきました。

そんな中、いつも物足りなく感じたのは、介護関連の人たちがそうした対話の力、ときに集団としての政治的な力をうまく使えていないことです。介護業界にも、日本介護福祉士会という職能団体があるにはあるのですが、介護福祉士の加入率(組織率)はわずか4%ほどで、業界団体としての機能をほとんど果たせていない。

元官僚の私が言うのも変な話ですが、自分たちの業界を発展させるため、社会における自分たちのビジョンや権利を実現しようと考えるならば、小異を捨てて大同団結し、もっと声高に自己主張すべきです。介護現場で働く人は、すでに180万人を超えているのですから。日本の主要産業といっていいのです。

介護現場で深刻な人材不足が続いているのは、介護スタッフの待遇改善や社会的な地位向上がうまくいっていないから。課題は分かっています。介護現場を本当に良くしたいと考えるならば、一致団結して、自分たちの主張を社会にきちんと伝え、巻き込み、実現していくプロセスが必要です。“厚労省待ち”ではだめです。たとえば、「2025年までに〇〇したい」「2030年を目処に〇〇を目指す」など、まずは業界全体の目標を高く掲げてみましょう。

業界として明確な目標を掲げることができれば、介護スタッフの皆さんも一人ひとり、自己の目標やキャリアパスが見えてくるはずです。本当に現場の皆さんは素晴らしい努力と熱い思いを持っている。だからこそ、何とか、日本の誇るサービス分野、いや「文化」として介護を築き上げていきたいのです。

みんなの介護 なるほど、介護スタッフ一人ひとりのゴールが見えづらくなっている時代だからこそ、業界としてゴールを提示するわけですね。

武内 介護現場の労働環境がより良く改善されなければ、日本の超高齢社会にも明るい未来はありません。先ほど、私は厚労省の後輩たちにエールを送りましたが、この場をお借りして、介護スタッフ・事業者の皆さんにも心からのエールを送ります。一人ひとりの目標に向かって、どうか、がんばってください。わが国の未来をつくっていくのは、あなたたちです。一緒に進んでいきましょう。

撮影:公家勇人

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07