為末大「高齢者の手当が手厚くなるほど若者との間が分断されてしまう。「年齢」でくくって考えることは、もはやナンセンスなのでは」
陸上短距離種目の世界大会で日本人初のメダルを獲得し、シドニー、アテネ、北京と三度のオリンピックに出場するなど、25年もの間アスリートとして数々の実績を積み上げた為末大氏。引退後は義足開発の開発を行う『株式会社Xiborg(サイボーグ)』、スポーツ本来の価値を社会にPRする『株式会社侍』を設立するなど、スポーツの分野のみならず活躍の場を広げている。超高齢社会を迎えた日本のこと、東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年に向けて行わなければならないことについて伺った。
文責/みんなの介護
高齢の人たちが「高齢者にならなきゃいけない」理由なんてない
みんなの介護 為末さんは元陸上競技選手として、競技用義足の開発やパラリンピアンの育成など積極的にされていますよね。
為末 パラリンピックの選手たちって、本当にバラバラなんです。どういうことかというと、脚がない選手でも、膝から上がないのと膝から下がないのとでは、練習を考える上でもまったく異なるんですね。そういうのがおもしろいな、と思ったんです。
かつ、僕は世の中が「ワオ!」という感じになるのが好きで。オリンピアンが競争して勝つ「ワオ!」もいいけれど、障害者が健常者に勝つ「ワオ!」もおもしろいな、と。単純に“パラいいな”と思っていたところに、義足を作っている遠藤(遠藤謙氏:株式会社Xiborg代表取締役)が現れたので、彼と一緒にやっている、そんな感じです。
みんなの介護 リオパラリンピックではドイツのマルクス・レーム選手が新記録を出して、“オリンピックのメダルに一番近いパラリンピアン”として注目を集めました。
為末 あそこの領域は“余白”なので、義肢でもガトリングカーのようなものをはめ込むことは理屈上できるわけです。ある意味、不謹慎という思いもありながら、一方で“余白”だととらえて、そこにいろいろな物がはまるという考え方をすると、彼らは実質IoT化することができるわけです。
義足の中にチップを仕込んで、かかった圧を計測して、一歩一歩の圧を計測できる。人間の脚だと難しいけれど義足だったらできる、といった未来への可能性が広がっているというのもあるので。障害者の世界だとまだ悲壮感みたいな空気的はあったんですが、パラの世界ではそういうものはなくて。
みんなの介護 介護の現場にも、そういった技術を応用できることはできるんでしょうか。
為末 義足のコア技術は衝撃の吸収なんです。例えば、膝を痛めている高齢者の方がこの技術を使った小さなサポーターを使うことで、膝の痛みが軽減されるということはあると思うんです。そういった技術が日常に応用されていく実験が世界中に広がっていくといいですよね。
みんなの介護 普段、障害を抱えている方や高齢の方と接する中で、もっと世の中がこういうふうになったらいいなとお感じになったことはありますか?
為末 スポーツ選手という前提でいくと、現役時代に失敗を経験したりする中で、心で引っかかることが多かったので心理学に興味を持ちまして。心理学理論の一つに、ラベリング効果というのがあります。人間は思っているよりも“自分”というものはなくて、「そうだ」とラベルを自分で貼ってしまうと、本当にそういうふうになっていく、という理論です。
例えば、2つのグループがあって、片方は高齢者の映画を見る。もう片方は子どもの映画を見る。見終わったあとに「どうでしたか?」とアンケートを取るんですが、どのデータを見るのかというと、映画館を出るまでの歩行速度なんです。高齢者の映画を見たほうは、歩行速度が遅くなった、という結果が出たんですね。
簡単に言うと、「人間なんてそんなに確固たるものなんてない」というのが僕の持論です。で、話はもとに戻ってきますけれど、大半の問題の原因は、高齢者の人たちが「高齢者にならなきゃいけない」と思っていることがけっこう大きいんじゃないかと思うんです。
みんなの介護 65歳以上だから高齢者というくくりにしてしまって、高齢者らしく振る舞いなさい、といった世間の目があるというか…。
為末 そうなんです。“シルバーデモクラシー”のような現象があるでしょう。高齢者に分類することで、そう振る舞ってしまう、というようなところがある。そうじゃなくて、今“高齢者”と呼ばれている人をもうちょっと若造扱いしたらどうでしょう?例えば、90歳以上の人を“高齢者”と呼ぶとか。
永田町がいい例ですよ。80歳の人たちと一緒にいると、65歳なら若造扱いでしょう。65歳くらいだと“お嬢ちゃん”のような世界にいると、本当にお嬢ちゃんぽいことになっていく。妙に“上がった感”になるのも、比率的にはおかしいなという気がするので。極端な話「常に全人口のうち20分の1を高齢者と呼びましょう」といったことにして、その下の年齢層は全部労働人口としてとらえるような空気にするだけで、本当にみんなそんな感じになっていくんじゃないかなという気がするんです。
高齢者のための手当が手厚くなればなるほど高齢者の人と若い人の間が分断されていっている
為末 スポーツ現場は高齢者を高齢者扱いをしないせいか、スポーツをやっている人たちは歳をとっていくことに対して後ろ向きじゃないんです。一緒に練習をするコミュニティに若い子たちが多いと、年寄り扱いされにくい。走るのも合わせなければならなかったりするわけじゃないですか。そういったコミュニティの中で年齢の壁を壊してしまうことがスポーツの果たせる役割だと思うんです。“年齢による思い込み”を壊すことができるんじゃないかと。
実は、アスリートの引退年齢はすごく伸びているんです。特に、水泳なんて10歳くらい伸びている。大きな要因の一つは、引退したあとに実業団が受け入れてくれるようになったということですが、誰かが30歳まで現役を続けると、一気に30歳まで現役選手の年齢が伸びるという傾向があります。陸上の場合、高野進さんが31歳まで現役でしたが、それ以降、みんな30歳まではなんとなく、という感じ。現役のときから、みんなそんな感じなんじゃないの、と思っていました。
みんなの介護 医療が発達したと言われていますが、スポーツの現場での実感はあまりないですか?
為末 そう言われていますが、選手の環境はそこまで劇的には変わっていないので、思い込みが人間を支配しているんじゃないか、と僕は思いますね。
スポーツをやっている現場においては、若い人がいるというのは前提なので、そのコミュニティにいると、自分の年齢を忘れてしまう。おじいちゃんが自転車で練習会場に来て、ユニフォームで走る。練習が終わったら若い人と一緒にコーラを飲んでいる風景。こういうのが社会に増えるといいなと思います。
みんなの介護 さまざまな年齢層の人を受け入れる土壌が、スポーツにはありますよね。
為末 パラリンピックの世界でも似たようなことを感じています。「パラリンピックの支援って重要ですね」と世の中が言えば言うほど、パラリンピアン支援のための予算ができる。支援が増えるのは悪いことではないんですが、次第にパラリンピアンだけの練習会場ができるんです。そうすると、障害者だらけの競技場になる。それって、変な風景なんですよ。だって、障害を持っている人と持っていない人が世の中にはいるのに、どうして混じってないの、と。
高齢者の方を取り巻く環境でも同じで、高齢者のための手当が手厚くなればなるほど高齢者の人と若い人の間が分断されていると思うんです。年齢でくくるという概念は、日本人はどうしても強いけれど、年齢のくくりではないものにしないと、感覚的にもそこのコミュニティに固まってしまうと思うんですよね。
みんなの介護 たしかに、選挙前には高齢者向けの“バラマキ”があって、若者との対立構図はメディアでも言われていることです。
為末 “何事も一律だ”という前提になりすぎている気がするんです。以前、経済学者の大竹文雄先生が言っていたことが印象に残っています。子どものときに、“人間の能力に差はない”と言われながら育つと、将来において、社会的弱者に保障をすべきではないという考え方になりがちなんだそうです。それをさかのぼると、人間は平等だから、頑張った人が報われて、頑張っていない人は報われない。ゆえに、報われないのは頑張らなかったその人のせいという考え方になりがちだ、と。
日本には「こういう形じゃないと世界が尊敬してくれないんじゃないか」という価値観が、昔の世代のまま残ってしまっている
為末 日本はこの類の厳しさが、いたるところに多い気がするんです。世間からは「お前が頑張らなかったからだよ」という無言の圧力を感じます。本当は人間の能力には差があって、生まれたときでもすごいヤツはすごいんですよね。だいたい僕が炎上するときってこういう類の話なんですが(笑)。やっぱり、人間には能力の差がある。みんな頑張ったって、どうしても差はついてしまうんです。だからこそ、社会でうまく支える仕組みを作る必要があって。
みんなの介護 そのためには、世の中にはびこっている“人間は平等”という考え方を崩さなければなりません。
為末 僕が義足に携わっているときに思うのは、多くの人が“健常者に近づけよう”という考えを持っているということなんです。あるスタンダードがあって、そのスタンダードから外れたり欠けたりしているものがある人はスタンダードに入るために埋めて、「あ、健常者みたいになったね、すごいね」という感じ。スタンダードに入るようになることを“努力”と言っている価値観なんです。報道を見ていても「すごいですね!障害をもっていても、健常者のように戦えるんですね」という感じ。
そうじゃなくて、各々は全然違うんだから、そのままの方向で発展を目指すことのほうが、人間らしい脚を作るよりも全然違う脚を作るほうがいいんじゃないの、とも思う。すごい形の義足を履いている人が、カチャカチャ動きながら競技場のまわりを歩いていて、音をたてたり光を放ったりするようなイメージです。スタンダードに近づくというものから解き放たれると、もっとワクワクできると思うんです。
みんなの介護 2020年に向けて、または2021年以降に日本が最もやらなければならないことはどのようなことだと思いますか?
為末 一番は、価値観の転換ですね。マイケル・ジョーダンがいい例だと思うんですが、得点をガンガン決めるというプレースタイルから、パサーのほうにまわって、チームの勝率を上げることに貢献したんです。アスリートは自分の年齢が上がっていくにつれて、パフォーマンスが落ちていきます。そのときにコーチサイドに回ったりスポーツを広める側に回ったりして存在感を発揮する。日本は「こういう形じゃないと世界が尊敬してくれないんじゃないか」という価値観が、昔の世代のまま残ってしまっているんじゃないかと感じます。
その次の段階では、受け入れがたかったことを受け入れなければならなかったり、色々やることはあると思うんですが、だからといって“負け”ではなくて、全然違う形で存在感を示すことができる、ということなんですが。どうも前のかっこよさを手に入れようとしていると思うんです。「40代になって、20代の格好をしちゃ違うのはみんなわかっているよ」という。ちょっと違う形の尊敬のされ方にふったほうがみんな幸せになるよね、と思うところです。
みんなの介護 昔のかっこよさとは、がむしゃらに働くことだったり?
為末 そうですね。あとは、いわゆる今世の中にあるランキングの上位に位置することのかっこよさ、ということですかね。一方で、イギリスやフランスは世界の経済規模でみると、けっこう厳しい。でも、それまでで持っている文化面を前にうまく押し出して、IOCの中心に君臨しているんですが、文化的なものをうまく利用しながら、かっこよさを出している。
僕は永遠に栄えるなんてことはないと思っています。国も、成長と衰退を繰り返していく。今は、昔に決められたレースの中で、置いていかれないようにしがみついている。どうしてレースの進む方向を変えないのかと思う。世界中が認識しているレースの角度をうまく変えれば、実は日本が先頭を走っていたということに気がついたりできるんじゃないかと。その価値観の転換を2020年で行い、国外の日本に対する認識を変えることが一番必要なことだと思います。
寛容な社会に向かっていくためには2020年がターニングポイントになる
みんなの介護 先ほど、価値観を転換していくことが必要だと伺いました。世の中の価値観が変わっていくためには、どのようなことが必要だと思われますか。
為末 一番は、寛容の国になっていくことですね。日本という国が、テックの力が混じりながら、だいたいの人が受け入れてもらえる土壌ができていくといいんじゃないかと。あえてガラパゴス化させるというか。僕はもともと自分がユルいんで、“寛容な社会”は生きやすいなと。今までは日本人の大部分の人にとっての心地よさを追求してきたと思うんですが、それが、障害者や高齢者にとっても寛容な国になっていって、海外からも「日本っていい感じの国だよね」と褒めてもらえるといいですよね。
例えば、僕と障害を持っているアスリートが歩いていて、スペイン人と話す機会があったとします。アスリートの彼はスペイン語を話せるんですけれど、そういった場面では僕はスペイン語をしゃべれなくて、彼はしゃべれる。要は、ある局面において、自分の持っている能力と持ち合わせているものによって“障害を感じる”ということはあっても、障害というもの自体が本当は存在しないのではないか、と。
みんなの介護 ほとんどが外国人しかいない環境であれば、英語を話せない人にとっては、言葉が理解できないという障害を抱えているようなものですよね。
為末 そういうことを、間にテクノロジーをはさんで、車いすの段差が障害ならハードを変えて、ハードを変えるお金がないんだったら車いすを進化して、車いすが進化できないんだったらまわりにいる人が車いすを持ち上げるという、そういう社会の柔らかさでもって受け入れていくということをうまくブランディングできれば、あえて欧米が狙っていきそうな方向と反対側を走っていっても、結果的には日本のほうが“勝ち”だよね、と。
競技をやっていた経験から言うと、欧米のあとを追いかけていっても、どうにも追いつけない気がしたんですよ。彼らが開発した練習とかシステムの中で追いつけ・追い越せと頑張るのは限界があるので。幸い、日本という国は世界が抱える課題を早めに抱えるので、世界が気がついたときには「どうも日本のほうが時代の潮流だった」と先行しているような戦い方のほうがいいんじゃないかと。
みんなの介護 とは言っても、「日本という国がギスギスしていて息苦しくなっている」という声が年々増えていると思うんです。
為末 そうなんですよね。あれ、なんでですかねえ。たしかに、苦しいことはあると思うんですよ。地方の病院がなくなったりとか、それこそ、僕は日本経済が破綻すると考えているので、税金が止まってきて地方の道路がボコボコになったりすることって将来的にはあると思う。
今のギスギス感って、30代から40代にかけて男性も女性も感じる、「まだ若いんだけれど、もう若くない」みたいな、ちょうどそこにいるギスギス感と似ている。なんなら早く次の形を受け入れちゃおうよって思うんです。それって諦めだとか負けだとか、価値観を変えるときに思うんですよね。「レースで3位だったんだから辞めたんでしょ」と言われるのを、2020年でうまく、「負けてないじゃん、こうやったらかっこいいじゃん」と転換する姿を見せられると、安心して次のレースに入っていけると思う。簡単にはいかないほど色々あるとは思うんですが、僕は“寛容な社会”を作っていくのがいいんじゃないかと。
いまだに “あのときの夢ふたたび”みたいなことを思っているところはあるはず。2020以降はかっこよさと諦めを受け入れるような空気ができれば
みんなの介護 寛容な社会に向かっていくためには、2020年がターニングポイントになると。
為末 僕はそう思いますね。あと、今回のリオオリンピックで感じたことといえば、メダルの報道だけでなく、競技中に転倒した選手を別の選手が引き上げたといったサイドストーリーが表に出ていたということです。
メッセージを表明して出る選手も多かったですね。LGBTとか、子どものときに性被害を受けましたとか。次第に「同じ人を励まします」という人がSNS上に出てきて、ハッシュタグが付いていたり。昔は国家というくくりでしか“同じ”という見方ができなかった。今は国家じゃない枠組みで同じ人を見出すことができています。僕なら“身長がもっとも低いハードラー”なんですけど、そういう人を励ましたいと表明すると、世界中のスポーツ界で“背が低い”人の共感を集めて、応援団になるかもしれません。国家という枠を超えて応援団ができているのが興味深かったですね。
前回の東京オリンピックは1964年でしたが、いまだに “あのときの夢ふたたび”みたいなことを思っているところはあると思うんですよ。特に、スポーツ界ってそういう部分があります。いやあ、あのときの65歳以上の人口は6%ですからね。今は30%近いでしょう。
みんなの介護 社会保障に関する話だと、どうしても国の財政に対する否定的な意見が見受けられますが…。
為末 でも本当に、日本経済は破綻してしまうんじゃないかと思うくらい、社会保障費は相当厳しいとは思うんです。僕は数字のことは詳しくはわからないけれど、そのフェーズに入ったら“しょうがない、諦めるか”となるときが来ると思うんですね。それを今の段階だと踏ん切れないので、2020年のときに新しい価値観に変わることを受け入れるような空気ができればいいなと。
全部税金でやるのではなく、“2020ファンド”を作って志のあるベンチャーに作らせれば新しい産業も生まれる
為末 スポーツの選手を例に挙げるならば、状態がいいときというのは“ストーリーにはまる”という言い方をするんです。どういうことかというと、自分でつくったいい物語に自分が入り込んでいって、物語が現実化する、奇跡が起きるときのパターンというか。そうはいっても、その物語が突拍子もなかったらまったく無理なんですが。
これを日本に置き換えると、どんな物語を生きるのか?と考えてみたんです。新しい物語を生きると、記憶に残るじゃないですか。例えば、会社の上司が部下に「イチローはこう言っていたんだ」というようなことを言ったりするわけですよ。物語を記憶しやすいように、理解しやすいように記憶できているんですよ。そういう意味では、いい物語を見せて、次の物語を紡いでいっていけると期待したいですね。
みんなの介護 人々の記憶に残り、何度も語り継がれるような物語ということですね。
為末 でも、日本国民全体が「なるほど、こっちの方向ね」と思うためには、相当シンプルな物語で、かつ信じられるものである必要がある。なおかつ世界からも認められるようなものだと、客観的に物語だと認識することもなく、自然と物語に入り込んでいけるんじゃないかと思います。でも、なんだかんだお祭りですからね、オリンピックって(笑)。こんなにいい機会はないと思うので。
みんなの介護 ただオリンピックを楽しんで終わるのはもったいないです。世界中の人が見ているので、日本の良さを広めるには格好のチャンスですよ。
為末 今は権利の関係でできないのかもしれないですが、ドジャースアクセレレーターといって、メジャー・リーグで使う商品や新サービスの開発をベンチャーに委託するプログラムがあります。ベンチャーキャピタルのようなもので、ドジャースの資産(オフィススペース、ブランドなど)を使わせてあげたり、メンターしてあげる代わりに株の一部を握るんですね。最後にエグジットしたら利益が出てファンもチームも喜ぶようなことをやっている。
東京2020は全部税金でやるんじゃなくて、本当は“2020ファンド”を作って志のあるベンチャーに事業を作らせて、シェア30%をVCが回収する、みたいにやると、新しい産業も生まれると思うんです。セコム(当時の社名は日本警備保障株式会社)を生んだというのは、1964年の東京オリンピックの大きな効果だと思います。
みんなの介護 オリンピックは公的な機関が主導している面が大きいです。ベンチャーにうまく切り売りして明け渡すことができれば。
為末 多いですね。まあ、スポンサーがあれだけいたら、そうなってしまうんでしょうね。そういう意味では、オールドスタイルになってしまっているけれど、僕はベンチャーにはきだしてほしいなと思っています。
高齢者の方の健康維持くらいまでが、スポーツ界の責任範囲。アスリートにも言及する義務がある
みんなの介護 寛容な社会になっていくためには、変化を“負け”ととらえるのではなく、良い意味での諦めを受け入れていく必要性を伺いました。オリンピックの予算もそうですが、2021年以降の日本を考えた上で議論がされなければ、後世に財産を残すことはできません。
為末 僕個人の発想で、常にニッチなところに行ったり、逆を張る発想が強いので。昔からそんな感じだったんですよね。みんなが遠足の準備でワクワクしているようなときでも、一人で遠足後のことを考えていたり(笑)。後片づけはけっこう大変だなと思いますよ。20年にぴったりと日本が終わるということはないんでね。
今はアスリートの支援をやっているんですが、アスリート・ファーストといって“選手を最優先にする”趣旨はわかりますが、一方で、アスリートが施設のことで何か言いましたか?という気もしているんです。つまり「ここに何を作ってください」とか「ボート場はこれぐらいの予算が必要なので、こうしてください」というようなことを口にしているアスリートを見たことがない。アスリートが予算や計画を出せるような文化に変えたいという思いはあります。
あとは、高齢者の方の健康くらいまでの範囲が、スポーツ界の責任範囲だと思っています。そうすると、スポーツ界のビジョンを決めるのはアスリートだから、そこに言及する義務がアスリートにはある、ぐらいの感覚がなければ、スポーツ界ってそこまで尊敬されないと思っていて。
みんなの介護 最前線に立っていらっしゃったからそう思われるんでしょうね。
為末 うーん、現役のときは尊重してくれるんですよ。引退後のアスリートとかスポーツ界全体が尊重されていないと感じるんですよね。
みんなの介護 尊重されないというのは、引退後の活動ということですか?
為末 どれくらいいます?引退したアスリートで尊敬できる人って。僕がよく聞くのは、「アスリートなのに経営できてすごいね」とか。いやいや、そういう感じですか、みたいな(笑)。たしかに、アスリートって一つのことをずっとやってきたいわば職人なので、社会のことはわからないよねというのが一般論のようです。
みんなの介護 少なからずそういう先入観はあるかもしれないです…。
為末 スポーツで医療費を抑制できるか否かって、スポーツの領域と言っていいと思うんですが、「それについてどのようにお考えですか?」とか「どのくらいの数字的なインパクトがあると思いますか?」とか、アスリートに聞いているのを僕は見たことがないんですね。アスリート・ファーストというぐらいだから、アスリートあるいはスポーツ界の人間はそれに対して貢献すべきだと思うんです。
ある意味、すごい尊敬されているんですが、ある意味で、すごい馬鹿にもされていて。競技に関してはすごいことができるんだけれど、他のことは何もできないみたいな人たちっていう。引退するときにも、現役のときにも。変な話、オリンピックまで行った人で引退後に活躍している人は少ないんです。引退後は逆転するんですよね。
本当はアスリートの能力は高いと信じているので、競技と同じくらいのエネルギーを使えば、社会の役に立つことが可能だと思うんですよね。それがもどかしいです。でも、本来は能力が高い人たちなので、本気を出せばできる人たちだと思っています。
強化費を削るとしたら、本当は誰かを切っていかなければならない。スポーツ界も社会保障費の問題と似ている
為末 よく誤解されがちなことの一つに、スポーツ界がすさまじいレベルのことをやっていると思われていることがあります。実際のところは、大学などの研究所のほうがレベルの高いことをやっている。個別の選手とコーチのところでは、世界トップレベルのことが行われているけれど、どうやって強化していくかという競技全体の戦略に関しては驚くくらいレベルが低い。個別戦略よりも全体戦略のほうがメダルに影響したりするんですね。日本は全体戦略が弱いです。
ある競技では、20数歳までにメダリストになっていなければメダリストになる確率はガクッと落ちるとします。メダルの数で見た場合、20数歳以降で強化費を出すことにあまりメリットはなくて、強化費を切っちゃうということが起こるんですね。
みんなの介護 そこはドライに割り切るんですね。
為末 イギリスはそういうことをやったんですよ。予算をマイナー競技にふったりして。僕はメダル至上主義ではないですが、もしメダル数を増やすことにこだわって強化していくんだったら、いくらでも倍くらいにできると思うんですが、やるとしたら誰かを切っていなかければいけない。それ、できますか?っていう。
例えば、サッカーにいくらお金をかけても金メダルは1個なんですけれど、体操ってスターが出ると4つくらい金メダルを穫れる。水泳もですよね。そうすると、体操や水泳のほうが投資効率がいいわけです。体操に投資をしておくと、体操から棒高跳びとかに転向がきくといったことを分析すると、シンプルな答えは出るんですが、ただ、そういう選択ができるかというと、難しくて。
みんなの介護 社会保障と似ているところがありますね…。
為末 実は、答えは見えているんだけれど、相当数の人が切られて泣くのもわかっていて、それができなかったら対象をまんべんなく広げるんで、相応の結果が出ると。
スポーツ界の課題ばかりになってしまいますが、何かを代表していないスポーツ選手が少ないというのも課題ですね。サッカーとかバレーとか、JOC(日本オリンピック委員会)を代表している選手は多い。そうすると、公で話す機会があったとしてもその団体の利益になることを話す場になってしまうんです。日本全体にとっていい意見というよりは、どこかの業界に利益を誘導するような議論になりがちで、例えば元バレー選手がバレー界に損な選択はしにくいわけですよ。
みんなの介護 普通は、自分がやっていた競技に肩入れしてしまうものですよね。
為末 僕がときどき意見を求められるのは、後ろ盾の団体がないので、呼ばれると思うんです。“こいつは誰かの代弁者ではないだろう”という。ある意味、アスリートの代弁者ですね。
新国立競技場建て替えの議題の一つに、サブトラックの建設をどうするかということになったんですね。陸上競技者経験者から言えば、競技場の隣にサブトラックがあったほうがいいわけです。でも、サブトラックを立てる金額がこれぐらいというのを聞いて、ないほうが日本にとってはいいなと思ったんですよ。でも、日本陸連(日本陸上競技連盟)の何かをやっていたらこんなことは言えないわけですよ。国の財政が苦しいことがわかっていても「サブトラックがほしい」と言っていたかもしれません。
スポーツ界のいいところは、そのスポーツの団結力が強いところです。でも、強いがゆえに…。だから、フリーのアスリートのような立場の人間が増えるといいなと思いますね。陸上、とかバレーとかではなく。
市民がスポーツをする拠点を学校にすることで地域のコミュニティができる。スポーツが社会に貢献できる力がある
為末 僕もやっぱり陸上には贔屓目ではあるんですが、一方で、陸上界に職はないので、陸上にとって不利なことでも、スポーツ全体にとっては有利なことはやったほうがいいという立場なので、今のところはそういう立場がとれるんです。好き勝手言って、偉い人にはなれないかもしれないけれど、全体の健全が保たれるというのはいいんじゃないかと。
みんなの介護 そうやってスポーツ界全体の健全が保たれていくことで、今後、期待できることはどのようなことでしょう。
為末 ここ近年で感じるのは、大きな流れとして、余暇ビジネスというのもが大きくなっているなということですね。余白とか遊びに関するものが増えている気がしていて、いよいよスポーツの知見の出番なんじゃないかと。
例えば、任天堂の社員は労働して生み出しているものは人々が余暇で楽しむものという感じじゃないですか。どうやったら、人が楽しんで夢中になるのかっていうのを、深く考えないといけない時代になっていると思う。そういう時代で大事なことは、人間の理解みたいなものだと思っていて。
昔はそういうところまでなかったんじゃないかと思うんです。昔の車に求められたのは安全面だったのが、楽しく運転するとは、みたいなこととか、遊びの中のことを大真面目に考えるということが、変化の激しい時代を生きる強さにもつながるんじゃないかと。僕はスポーツにはそういう要素が強いと思うんです。今後は、人間が楽しんだり喜んだりするということは、つまりどういうことか、といった人間を理解していくことが重要視されるでしょう。
みんなの介護 スポーツが社会に貢献できることとして、例えばどんなことが考えられるでしょうか。
為末 例えば、学校を開放して、各学校に一人くらいスポーツの先生をアスリートがやる。学校というのは、9時から16時くらいまでが子どもの時間で、それ以外は地域の場所です。たしか、ヨーロッパはそうしているところが多いんですね。17時くらいになると、外で野球のバットを持って待っているおじちゃんが集まってきて、市民のスポーツの時間が始まっていく。そこに子どもたちが混じれば、部活の問題も解決するでしょう。簡単なことでいくと、こういったことですかね。
みんなの介護 学校を拠点とした地域のコミュニティができますね。
為末 進んではいますけれどね。ニューヨークは、歩いて20分のところに公園を作る、といったことをコンセプトにあげたようです。東京では、歩いて20分のところにスポーツ施設にアクセスできるというのをビジョンに掲げるとしましょう。実際に何をやるかというと、学校を開放すれば、ほとんどの場所が20分圏内におさまります。こういった、わかりやすいことをやったほうがいいと思うんですよね。
100m9秒台の選手を作るというのも大事ですが、その一方で、例えば日本陸連が主導になって、多くの人がスポーツをして健康に暮らせる環境づくりを進めることも同じことなのかな、と思います。スポーツ界の人間もわかりやすい例を出していって、社会に貢献していけたらいいですね。僕は、スポーツにはその力があると思います。
撮影:公家勇人
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