撮影当時の関口監督の心境は?
母の認知症が初期だったこの頃は、現在よりもずっと大変だった
2010年1月、大学卒業後から29年間を過ごしたオーストラリアを離れ、すぐに母との日常生活が始まりました。
今思い返せば母の認知症が初期だったこの頃は、現在よりもずっと大変だったなあというのが正直な感想ですね。
それは、ひとえに認知症による大変さというよりも、母の性格の難しさに起因していたのだと思います。とてもプライドが高い人なので、そこに気を使いました。
例えば、貯金通帳の喪失。失禁の始まりから来るトイレットペーパーの大量消費。自室への閉じこもり。そして、入浴の仕方がわからないという混乱からの入浴拒否。
これらの<できない>が大挙して母に押し寄せてきたのです。
それでも娘の私からはそのことを指摘されたくないし、助けてもらうなんてとんでもない、という母の毅然たる態度…。
母にとって、助けを受け入れることはできないことを受け入れるという大きな敗北でもありました。
この一筋縄ではいかない母の性格の難しさは、ドキュメンタリー映画の被写体としては、最強の主役になるだろうと思っていました。
娘としては困っても、監督としては「その困っている状況がとても良い」と感じていた訳でして(笑)。
そういう意味では、監督の視点のおかげで、常に母の介護の大局を見ることができたように思います。
そのとき関口監督がとった行動は?
介護生活の初期に欠かせなかったのは、姪っ子の存在。最高のキャスティング(!)でした。
母の在宅介護生活の初期に欠かせなかったのは、姪っ子の存在ですね。最高のキャスティング(!)でした。
彼女のとてもホンワカした性格は、母の認知症初期には絶大な効果があったと思います。
姪っ子を通して母と娘(私)の関係にワンクッションを置く。私が聞けなくても姪っ子が、母に薬のことを聞いてくれる。母も私からの質問は無視しても姪っ子(孫)には、本音を言ったりする。
そんな三角関係に随分、母も私自身も救われていたと思います。
また、姪っ子はおばあちゃんが心底好きで、そのことをきちんと愛情表現していたので、母もその純粋な愛を素直に受けとっていましたよ。
そんな姪っ子の存在のおかげで、撮影もすべてあうんの呼吸でうまく運んでいきました。
信じられないような母と姪っ子のシーンが、たくさん撮れたのです。これぞドキュメンタリー映画そのもの。
私にとってもこの撮影初期の段階で「イケる」と思えたのは、撮影を続ける大きな自信にもなりました。
関口監督から読者へ伝えたいメッセージは?
介護において主役はあくまでも母であり、私は脇役なのだということ
認知症初期の人の介護には、ひと工夫もふた工夫も必要だと思います。
本人が薄々「おかしいな…」と感じていても、私の母のように「自分は大丈夫だ」と言い聞かせていることもあります。あるいは、逆に混乱して、自分に絶望しているかも知れません。
介護する側は、その辺りを冷静に見極めることが重要になってきます。
ここで一番のチャレンジは、介護する側のフラストレーションや感情の爆発をどのようにコントロールするかということです。
つい相手にいろいろと言いたくなってしまう。あるいは、介入したくなる自分をどう抑えるのか。
実際のところ、介護は、そんな自分と向き合えるかどうかなのだと思います。
家族であることの利点のひとつは、介護される側の性格を掴んでいることではないでしょうか。
相手の性格を踏まえたうえで、作戦を立てる。何が何でも自分でやろうとはせず、他の家族のメンバーと役割分担(ただし、キャスティングは慎重に!)をする。例えば、私が姪っ子に頼って母の薬の情報を得たように。
ここで覚えておくべきことは、介護において主役はあくまでも母であり、私は脇役なのだということです。