すべての生物は子孫を過剰生産する。
それはつまり、“定員オーバー”の船に
どんどん乗客が乗ってくるのと同じこと

偉大な生物学者チャールズ・ダーウィンは、進化論を提唱したことで有名です。では進化論とはなにかというと、これが、なかなかに難しい概念です。しかし介護の未来を考えるためには、どうしても、進化論からはじめないとなりません。回りくどいとは思いますが、以下、お付き合いください。

ダーウィンが着目したのは、すべての生物は子孫を「過剰生産」するという事実でした。すべての生物は、その環境の収容能力をはるかに超えて、多数の子孫をつくります。定員オーバーの船に、どんどん乗客がやってくるような状態をイメージしてください。

定員オーバーの環境では、食料や生殖の機会をめぐって、生存競争がおこります。生存競争があればこそ、生物は、特定の環境への適応を高めていきます。また、それがあるから、自分たちが生きられる新たな環境を探し出すという圧力も生じるのです。

定員オーバーの船が沈没するように、収容能力が低下した環境では生存競争が起こる

子孫の「過剰生産」が前提ですから、新たな環境が見つかった場合も、その環境でさえすぐに定員オーバーになります。収容能力にバッファ(余裕)などないのが、生物の宿命でもあります。

ダーウィンが進化論で示したのは、子孫の「過剰生産」が生み出す生存競争であり、能力が活かせる環境を(偶然)見つけて適応したものだけが生き残るという自然淘汰です。この裏側では、生存競争に負け、環境に適応できなかった多数の脱落者が生まれているわけです。

ここで注意したいのは、自然淘汰からの脱落者は、自己責任によって脱落しているのではないという点です。それはたまたま、自分の才能(形質)が活かせる環境が見つからなかったという偶然によって決まっています。進化論は、個体が努力することによって、自らとその子孫の運命を変えるということ(獲得形質の遺伝)を否定しています。

医療や社会福祉を充実させたために
“悲惨な状態で長生きする個体”が増え
広い意味での“戦争”が起こりやすい状態に

人類にとって社会福祉とは、こうした脱落者に手を差し伸べるという行為に他なりません。進化論が事実であれば(これを否定することは困難ですが)運が悪いだけで、誰もが脱落者になり得るのです。

ここで、人類は他の生物とは違い、努力によって運命を切り開けると主張する人もいると思います。ただ、それは特定の分野に興味をもって努力ができる才能(遺伝)があったからと考えることも可能です。むしろ進化論の発展は、個体の運命は遺伝と環境によって決まることを示し続けています。

人類もまた生物であるという事実に立ち返ったとき、クリアに見えてくることがあります。子孫の「過剰生産」は、環境の収容能力が成長しているときは、その環境が、個体の多くを幸福のうちに吸収できるということです。逆に、環境の収容能力の成長が停滞するときは、多数の脱落者が生まれます。

高度成長期には、社会福祉はほとんど問題視されませんでした。その背景には、社会福祉に関する教育が不十分で、脱落者の存在が見えていなかったということもあるでしょう。しかし本質的には、高度成長期には、環境の収容能力が十分に成長していたと考えたほうが正しいと思います。

環境の収容能力を高めるために高度経済成長期には社会福祉が問題視されなかった

この考えからすると、なぜ今、社会福祉が注目されてきているのかも明白です。環境の収容能力の成長が停滞しており、もしかしたら成長どころか衰退しつつあるからです。そして人類の場合、このインパクトは、ほかの生物よりもずっと大きい可能性さえあります。

ほかの生物の場合、脱落者になることは、即、死を意味します。ですから、環境の収容能力の成長が鈍化した場合、すぐに個体の死滅が発生し、個体の総数が調整されるようにできています。しかし、医療や社会福祉を充実させてきた人類の場合、こうした状況になっても「悲惨な状態のまま長生きする個体」が多数発生します。これにより、ただでさえ定員オーバーの船の中では、広い意味での戦争が起こりやすい状態が生まれるのです。

圧倒的な科学技術の発展を背景に
全世界の人口は爆発的に増加…したものの
ここから先は“自然淘汰”の可能性も

過去1000年という(生物学的には)短期間の間に、環境の収容能力は劇的に成長してきました。背景にあるのは、科学技術の発展であったことは明白でしょう。それがいかに極端なものであったかを知るために、世界人口の推移を示したグラフを見てください。

旧石器時代から現代に至るまでの世界人口の推移を示したグラフ,現代に入って急速に人口が増加していることを示している

こうした人口のグラフをみて「どうして現代社会では、これほど急速に人口が増えているのだろう」と不思議に思った人もいると思います。しかしこれも、進化論でうまく説明できます。そもそも、少しでもチャンスがあれば、その環境の収容限界まで一気に個体数を増やすというのが(ほぼ)生物の定義です。

人口(特定の生物における個体総数)とは、つまるところ、その生物が適応する環境の収容限界を示しているのです。では、常に、子孫を「過剰生産」するようにプログラミングされている生物が、少子化になるということは、何を意味しているのでしょうか。

少子化の根本的な原因は、一般に信じられているように、晩婚化や共働きが増えたことではありません。生物が少子化という状態に陥るのは、環境の収容能力が限界に達し、その成長が鈍化したときです。少子化とはすなわち、脱落者が極端に増えていく未来を予言するサインにほかなりません。

先進国においては、のきなみ少子化になってきています。これは、現在も急速に発展しているかのように見える科学技術は、もはや、環境の収容能力の拡大には寄与していないことを示しています。むしろ人工知能の登場などは、人類から生活の基礎を生み出す仕事を奪うばかりで、収容能力を減らす方向に貢献してしまいそうです。

このまま、先進国における収容能力の成長が鈍化していけば、これから起こるのは自然淘汰の顕在化です。しかも人類の場合は、これが個体数の調整ではなくて、生存競争の激化から生まれる戦争という方向で観察されるはずです。

この課題にチャレンジする一番槍は日本。
社会を進化させるために、全世界が
注目する舞台の主役を務める

少子化というのは、病気における表面的な症状のようなものです。頭痛がするからといって、頭痛薬を飲んでいれば大丈夫ということにはなりません。背景には、脳卒中のような恐ろしい病気が隠れているかもしれないのです。

ここまで考えてきたとおり、少子化が見られる現代社会の病気とは、環境の収容能力の成長が停滞しているということです。この成長が、劇的に改善しない限り、21世紀は略奪と戦争の世紀になってしまいます。ここで「自分は逃げ切った」と安心している富裕層は、略奪のターゲットになることを覚悟すべきでしょう。

これを避けるために残されている可能性は、ひとつには、科学技術の開発を、環境の収容能力を高める方向に寄せることです。しかしすでに、人類とその家畜の体重の総量は、野生動物の5倍となり、全体の約84%を占めるまでになっています。これ以上、環境の開拓余地が残っているようには思えません。また、火星への人類の移住(テラフォーミング)が実現するには、あと100年は必要です。

そうなると、人類の大量死滅を避けるには、もうひとつの可能性しか残されていません。それは、富の配分効率を徹底的に高め、社会福祉を今よりもずっと充実させることです。すべての中間搾取を撤廃し、労働力を、環境の収容能力向上に対して配置することです。ここで求められているのは、まさに、人類社会の進化ともいえるものです。

こうしたことは、夢物語のように感じられるかもしれません。しかし、そうしないと大量死滅が起こるということは、進化論から考えると、飛躍の可能性でもあります。自然淘汰の圧力が大きいところでは、進化も起こりやすいと考えられるからです。幸か不幸か、人類の平均寿命の成長も鈍化しつつあります。収容能力の改善が、21世紀を希望の世紀に変える可能性は十分にあるのです。

世界中のどの国よりも早く人口減少がはじまり、少子高齢化が進んでいるのが日本です。日本という国家は、社会を進化させるという注目の舞台における主役なのです。日本こそが、このチャレンジへの対応策を世界に示すことになるということを自覚しなければなりません。未来の歴史家は、必ず、日本がこのチャレンジにどう対応したかを取り上げるでしょう(未来において人類が滅亡していない場合に限られますが)。

ごあいさつ

私は、介護の未来を語るということは、進化論を社会レベルにまで拡張し、人類の未来を構想することだと考えています。もちろん、財政や個別の介護技術について議論を重ねることも重要です。しかしこの問題は、人類という生物に起ころうとしている大量死滅の危機というのが本質だと思います。

繰り返しになりますが、過去の社会福祉は、環境の収容能力の成長が鈍化する世界では、まったく通用しないものになります。それは、進化論から見て当然のことです。そして、こうして新しい社会福祉の仕組みを生み出す必要性もまた、子孫の「過剰生産」が生み出す「定員をふやせ」という圧力によって生じているのです。

私は、進化論を無視した「安易な自己責任論」を強く否定します。過去の社会福祉のありかたが破綻しつつある今、そうした論戦をはる人も増えていくでしょう。しかし、それは間違いです。そしてこの連載では、自らを将来の脱落者として位置付け、その立場からこの危機感を共有できる読者とともに、未来を構想していけたらと願っています。どうか、よろしくお願いします。