コンテストの応募に至るまでにどんな経緯があったのですか?
今回のゲストは、絵はんこ作家のあまのさくやさん。あまのさんは、30代で若年性認知症の父の介護と末期がんの母の病に向き合うことになります。その思いを綴ったブログをnote上の「#コミックエッセイ大賞」に投稿したところ準グランプリを受賞するなど反響を呼びました。30代にして介護の悩みに直面したあまのさんの思いを漫画家くらたまが聞きました。
- 構成:みんなの介護
両親の介護や病の問題に直面するあまのさん。日常の中で感じた葛藤を素直な感性で綴っています。幸せな家庭に少しずつ暗雲が垂れ込めていく様子を瑞々しい感性とほのぼのとしたイラストで表した本書。介護の悩みに向き合う人にとって共感できるポイントも多いのではないでしょうか。
介護の葛藤を綴ったブログが入賞


両親の病気に悩んでいた頃、気持ちを落ち着けるために、自分の状況を文章に書いていました。友達には、家族の話は重すぎるので話せないでいました。その、誰にも言えなかった思いをメモに書き溜めていたんです。

もともとは、自分の心を整理するためでもあったのですね。その文章はいつ頃noteに投稿したんですか?

母が亡くなって半年ほど経った2019年の6月頃です。最初は匿名で投稿していたんですが、途中で思い切って実名を出しました。
ちょうどこの頃、noteが「#コミックエッセイ大賞」の応募作品を募集していたんです。

なるほど。ちなみに絵はんこは何がきっかけで始められたのですか?

会社員時代、仕事のつらさを癒すために始めたのがきっかけです。最初はなかなか上手くいかなったんですが、思いのほか好評をいただけたんです。
そして、似顔絵や名前が入ったオーダーはんことして、注文を受け始めたんです。徐々に版画のイラストをつくる仕事も増えていき、イラストレーターのようになっていきました。
元々、漫画を描くのは好きでしたが、イラストを描くのがすごく得意だったわけではありません。中学生のときは、美術の成績がとても悪かったとこともあります。そこから絵に対して自信をなくしてしまい、しばらく書いていませんでした。はんこは社会人になってから何の気なしに始めたんです。

まさに怪我の功名。結果的に良いものに出会えましたよね。

そうですね。思いがけず好きで続けられるものに出会えて嬉しいです。
父が認知症になり、変わっていく家族

ご本の中のお話ですが、お父さまの若年性認知症は、いつ頃わかったのですか?

父の行動がおかしいと思い始めてしばらく経ってからです。最初は致命的な記憶障害ではありませんでした。てんかんの重積発作を起こしたことがあるので、その後遺症ではないかと言われていたんです。
後日、この失踪事件を医師に伝えるも、これも一つの「無意識の行動=てんかん発作」だと言われる。これだけ事例が重なっても、まだ”認知症”という名前がつかない。
早く、認知症だと言ってよ……!
(『32歳。いきなり介護がやってきた。』P29より引用)
母は、叫び出したいくらいもどかしい思いを抱いていたに違いない。

実はそれまで、母がかかりつけ医に症状を伝えようとしても、父は「余計なこと言うな」と言っていました。
ある程度進行したら、わかりやすく症状が出てきたので、父の現状やエピソードをまとめた閻魔帳のようなものをお医者さんに提出したんです。母がつくったというと怒るので、そのときは叔母が勝手につくったという言い訳を添えて渡しました。
すると、今まで父を診てくれていたお医者さんの顔色が少し変わりました。いかに父の状況をわかってもらうかが、医師の診断にも大きな影響を与えると感じましたね。この閻魔帳は、のちに要介護認定調査のときにも役立ちました。

症状がありながらも認知症と認められない期間、ご家族は大変だったでしょうね。

そうですね。父は「何でもできる」と言っていたのですが、結局私たちが父のお世話をすることになっていました。そのストレスはかなり大きかったです。特に、専業主婦として父のお世話の大半を背負っていた母の負担は、重いものがありました。
また、私自身も父の病気によって家族の雰囲気が変わってしまったことがつらかったです。おしゃれして出かけるのが好きだった父が、ファッションにあまり気をかけなくなってしまいました。

それはせつなくなりますね。

そうですね。季節に合わせた服を選ぶこともできなくなっていきました。とにかく目の前にあるものを着る。完全に無頓着になってしまったのです。お風呂にも入らなくなるし。そんな父の変化に戸惑っていました。
それに、ストレスで母の愚痴が止まらなくなり、私に長文のLINEが来るようになったのです。その長文のLINEも面倒くさくなっちゃって、真面目に返さないときがありました。そうやって母の苦しみを見て見ぬふりする自分に対しても自己嫌悪に陥っていきましたね。
介護では上手に距離をとることを大切にした

お父さん、今老人ホームに入っているんですよね。入居はすんなり決まりましたか?

徘徊などもせずあまり動かなかったですし、特に施設側からお断りということはありませんでした。ただ、父はまだ若いので、老人ホームに同世代の人はいないです。
80代のおばあちゃんたちが中心なので、施設で絵手紙教室をやっても父はやらないです。ほかにも、父が好きそうなアクティビティとかはないですし…。
今いる施設はとてもよくしてくださっていてありがたいのですが、若年性の人向けの施設ってないものですね。今からでも、あったら教えて欲しいくらいです。

なるほどね。聞かないと、思いもつかない話ですね。


父は英語がすごくできるし、特技もいろいろ持っているんです。ただ、それをホームで生かすのはなかなか難しいですよね。一人ひとりに合わせた個別のプログラムはないですが、たまに将棋や麻雀はすることがありました。今はコロナでできているかわからないですけど。

施設に預けることにご家族の反対はなかったですか?

施設に入ってもらうのは、決めていたことではあったんです。私が介護に巻き込まれすぎないようにと母は気遣ってくれていました。母が病気になって、もう父を抱えきれないとわかったとき、施設に預けようという話になったんです。

お父さまの介護で、入浴介助や下のお世話が必要になってくる場面での葛藤もご本に書かれていましたね。

そうです。本能的にそれはできないと思ってしまいました。そこまでしたら、自分の心や父の尊厳がガラガラと崩れていく気がしました。
介護は、“嫌”なことにも対処しなければならない場面が、どうしても出てくる。だけど“嫌とも言っていられない”と思いすぎると、おそらく自分が壊れてしまうことも感じていた。幸い、それからしばらく、トイレ問題はたまに起こる程度で、私は“嫌”なことと対峙し続けずに済んだ。
(『32歳。いきなり介護がやってきた。』P94より引用)

どうしてもできないことは人に任せて正解です。お互いをつらくしない支え方というのがあると思います。

そうですね。それに物理的にもある程度距離をとることが救いになった場面もあります。私は、シェアオフィスに入って仕事をするようにしたのですが、ずっと家にいたら、つぶれてしまっていたと思います。
仕事もできなくなっていただろうし、心も前向きになれなかった。家族が悪いわけではないけど、その頃の家の中には澱んだ空気がありました。
もっと早くに社会的処方を知りたかった

ほかにあまのさんの介護の支えになったことって何ですか?

大きかったのは社会的処方(※薬を処方するのではなく『地域とのつながり』を処方することで、問題を解決すること)ですね。父が元気なうちに知っていたら…という思いがあります。家族の問題を外部の人に相談できると、心の負担がかなり軽くなる。それに、当事者や家族にはない視点がもらえることもありがたいです。


あまのさんの地域ではどんなふうに社会的処方が行われていたのですか?

地域に昔からある銭湯が社会的処方を担っていました。ここ数年で始まった取り組みではありますが、銭湯の常連さんだった有志の方や看護師さんと“まち歩き”をするイベントをしているんです。
もっと早く知っていたら、地域に知り合いが増えて、家族愛だけで父を支えるのではない状況が生まれていたと思います。
それにもっと早く父が認知症である診断がおりて、父の体を動かさないと…という思いになっていたかもしれません。
朝のほんの1、2時間の出来事ながら、ぐったりと疲れてしまう。私たち家族の日常生活は、本当に細い糸一本でつながっている。この日、糸がぷつんと切れかかり、崖から落ちそうだった私に命綱を差し伸べてくれたのは、家族以外の人たちだった。
(『32歳。いきなり介護がやってきた。』P160より引用)

あまのさんの年齢でお父さんの介護というのは、本当に早いと思います。でも起こらないわけではないからね。
社会的処方というものを、若い頃に知っておく必要がありますよね。
地域住民をつなぐ活動にやりがいを実感

今、あまのさんは岩手に住んでいるんですよね。移住してどれぐらいですか?

ちょうど1年ぐらいです。友人に声をかけられて岩手に来ました。車でも電車でも盛岡から20分ぐらいの紫波町という地域です。

地縁がないのに岩手を選ぶのは珍しいですよね。

そうですね。後先を考えないタイプで、直感的にこの地を選びました。生き生きしている地域の人たちが素敵で「ここで働くんだったらこの人たちのそばにいられていいな」と思ったんです。環境もいいし、不便はあまり感じないですね。

岩手では「地域おこし協力隊」もされているんですよね。地域の魅力を伝えるような活動ですか?

そうですね。地元の人にとっては当たり前になっている魅力を見つけて伝えることにやりがいを見出しています。ものづくりをする人たちの取材や、地元の高校などで講演をすることもありますね。

楽しそうですね。あまのさんのお気に入りの場所はできました?


紫波町図書館です。この図書館では「町での立ち話からも貴重な情報が入る」と捉えていて、町の人の声を企画展示に反映したり、普段図書館に来ない人の元に図書館が出張して出向いたりもしています。
地域住民と司書さんのコミュニケーションが温かいし、BGMがかかっていたり、飲食OKのスペースがあったりもする。お喋りも禁止ではありません。
赤ちゃんが泣いていても、「静かにして」と注意して終わりではなく、読み聞かせをしてくれることも。理想的な社会の縮図のような場所です。

素敵ですね。コミュニティの大切さが見直されていますが、図書館がその場所になる可能性を感じます。社会的処方のお話もそうですが、やはり地域でのつながりをつくることは今の時代大きいですね。
あまのさんが、介護の悩みに向き合う人に伝えたいことって何ですか?

あんまり自分を犠牲にしないでほしいということですね。

本の帯にも載っていましたね。自分の人生も諦めたくないって!これは大事なことよ。ましてや30代…あきらめたらダメです。

そう言っていただいて、安心しました。

あまのさんが30代でお父さんと離れる選択をすっとできたことは、とてもいいと思います。それに、そういう子どもの選択のために、施設ってあると思う。自分の歩みたい道で納得のいく人生を築いてください。
- 撮影:丸山剛史

あまのさくや
1985年、カリフォルニア州生まれの東京育ち。青山学院大学卒業後、会社員時代を経て絵はんこ作家になる。認知症の父と末期がんの母との日常を綴ったブログ『時をかける父と、母と』が幻冬舎×テレビ東京×noteコミックエッセイ大賞にて準グランプリを受賞。現在は岩手県・紫波町に移住し、絵はんこやエッセイの創作のかたわら「地域おこし協力隊」として活動している。チェコ親善アンバサダーも務め、チェコ共和国の魅力をはんことことばで伝えることをライフワークにしている。5月に旅行記エッセイ『チェコに学ぶ「作る」の魔力』(かもがわ出版)を刊行予定。