ご著書の『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』、とても面白かったです。ご両親のお話や戦争体験など盛りだくさんでしたね。
しかもまむしさんは私の両親よりも年上なのに、とてもお元気で、それもびっくりしました。
今回のゲストは俳優、タレント、ラジオパーソナリティーとして活躍する毒蝮三太夫さん。聖徳大学短期大学部の客員教授として介護や福祉の講義も受け持っている毒蝮さんは、自身の半生を綴った『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』を上梓しました。漫画家くらたまが「チャーミングな年寄り」になるポイントについて聞きました。
「やれオリジナリティーが大切、個性が大事だと言いながら、常識という枠に囚われ、鋳型にはまって身動きが取れなくなってる人が、今とても多いように俺は感じている。そんなんじゃ、相次ぐ天災やコロナ禍にみまわれ、先が見えないこの時代、生きられないぜ」。
著書の中でそう述べる毒蝮さん。天衣無縫で八方破れなエピソードを軸にして、戦前戦後の激動の昭和史を生き抜いてきた半生を綴ります。庶民の生きる知恵や家族の大切さ、そしてコロナ禍で見直されるべき価値観を網羅した渾身の一冊。
ご著書の『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』、とても面白かったです。ご両親のお話や戦争体験など盛りだくさんでしたね。
しかもまむしさんは私の両親よりも年上なのに、とてもお元気で、それもびっくりしました。
まあ俺は元気で働いて税金を払ってる「優良な年寄り」だよね(笑)。そういう年寄りを増やしたいと思ってるのよ。
政府としてはさ、年寄りは「厄介者」だろ?生産性もないし、医療や介護に金がかかるから、早くいなくなってくれたほうがいいと思ってるんじゃないの?
確かに年寄りって、同じことを何回も言うし、何を言ってるかわからないところもあるけど、そこは頑張って、ジジイもババアも「チャーミングな年寄り」になってほしいと思ってるんだよね。
チャーミング!大事ですね。まむしさんのようにチャーミングになるには、どうすればいいですか?
年寄りが嫌われるのは、年寄りの側の責任もあるよね。まずは、昔のことをぐちゃぐちゃ言わないことだよ。
なるほど…(笑)。あとは、お仕事を持つことも大事なんでしょうか?
仕事というかね、「キョウヨウ」「キョウイク」「チョキン」が大事だね。
と言っても、「教養」「教育」「貯金」じゃないよ。「今日、用がある」「今日、行くところがある」「筋力がある」ということ。
めちゃくちゃいい言葉ですね!私の父も、仕事がなくなった瞬間から老け始めて、本当に大切だと思います…。
それは定年制度の弊害だよね。仕事がなくなって急にヒマになると、老けたり、うつになったりする人も多い。
俺も若い頃と比べたら体は動かないけど、ジムに行ってスクワットとかエアロバイクとか筋トレはしてる。膝の軟骨が減っても、筋力で補えばいいんだよ。
それと、お金がなくてもできることは「清潔感」だね。
それは、お年寄りに限らず大事ですね。
別に高級ブランド品を身に着けているとかではなくて、洗いざらしで石けんのにおいがするとかでいい。
そしてもう一つは「素敵な笑顔」だね。笑顔もお金がかからない。
そうですよね…。うちの父は、すっかり笑顔を忘れています。
「笑いたくもないのに笑えない」って言う年寄りもいるけど、ウソでもいいから笑うことが大事だよ。歌舞伎みたいに「ワッハッハ」って大きな声で言ってごらんよ、楽しくなるから。顔の「笑う筋肉」の使い惜しみをしないでさ。
笑うって、大事ですよね。
大事だよ。いつも笑顔でいれば、愛されるチャーミングな年寄りになれる。
俺は腸閉塞で入院しことがあるんだけど、生前親しくさせてもらってた日野原重明先生(※)から、「いい患者さんになりなさい」って言われた。
「面倒をみてもらって当然」という態度じゃなくて、愛される笑顔や素直さを持ちなさいというんだ。
俺もほんとそう思ったね。愛想がよくて、医者の言うことを聞く患者さんなら、医者も治したくなるもの。
(※)元・聖路加国際病院名誉院長、2017年に105歳で死去
金言だなあ。
だから、まずい病院の食事もちゃんと食べたし、点滴も痛くて嫌だったけど、「あなたのための食事であり、点滴であり、薬だから」って言われてちゃんとやった。
こういう経験があるから、俺は老人ホームなんかでも「介護士には感謝しろよ。それぐらいできるだろ?このジジイ!」って言うの。まわりは慌てるけど、ジジイも言うことを聞いて、介護士に「ありがとう」って言うようになるんだよね。
そうしたらさ、介護士は泣いちゃうのよ。そんなの言われたことないからね。「ありがとう」って言うだけで、スタッフは喜ぶんだよ。
なるほど…。
それで、日野原先生からは「あなたは言葉で年寄りを治療して元気にする名医ですよ」って言われてさ、またその気になっちゃった(笑)。
名医!ほんとうにそうですね。
要するに、介護する側も、介護される側も「務め」があるってこと。
素直に聞く方が人生も得ですよって言いたい。若い女の子だって、笑顔の素敵な人のところに来るもん。日野原先生が講演をやっていた時は、20歳くらいの女の子が来て、握手やハグを求められてたな。
すごいですね(笑)。
それが先生の若さの秘訣なんだって(笑)。先生は、オレより25歳も上なのに、立ったまま1時間半の講演をこなしてたよ。
誰でも感謝された方がいいですもんね。
うん。大事にされたいなら年寄りも愛される笑顔や素直さが大切だってことに気づかなくちゃ。そうじゃなくてもうっとうしいんだからさ。なんでぞんざいに扱われるのかっていうと、原因は自分にあるのよ。
あなただって、お父さんの愛想がよかったら態度も変わるでしょ?
その通りです(苦笑)。
「介護される方も、お返ししようよ」ってこと。
本当に広まってほしいです。父に聞かせたい…。
介護される人は、素直になると同時にね、羞恥心を捨てたらいいんだよ。
難しいけど、そうしたら介護する方もラクですよね。
そう。年をとると赤ちゃんに返るっていうでしょ?もう赤ちゃんになっちゃえばいい。赤ちゃんは、平気でおむつを替えてもらってるでしょ?
いい大人は羞恥心がないとだめだけど、介護の時は邪魔をすることもある。若くても介護される側になったら、まずは羞恥心を忘れることが大切だね。
介護する側は、「赤ちゃんだから優しくしよう」、される側は「赤ちゃんなんだから任せよう」と思えば、お互いにラクなんだ。
確かにそうですね。
あと介護で重要なのは、無駄話!
無駄話ですか…!?
そう。いろんなことを思い出すのって、すごく脳にいいし、昔のことを話すと年寄りは喜ぶよね。
でも、思い出してもらう時は、急に「結婚したのはいつですか?」って聞いても無理なの。
「今日はいい天気ですね」とか「今朝は何を食べたんですか?」とか「今日はいい表情ですね」とか、無駄話で空気を暖めていかないと。
そうして、「若い時はけっこうもてたんじゃない?」とか「結婚したのはいつだっけ?」とかつなげていくと、いろんなことを自然に思い出すから。
今は、そんな無駄話をする時にもマスクをしなくちゃならないから、大事になるのは「目の表情」だよね。
目しか見えないですもんね。
コロナが収まっても、マスクはずっと使うと思うな。だから、目だけでチャーミングにならなくちゃいけない。
介護される人は、医者や看護師さん、介護士さんの目だけを見て判断するから、できるだけおだやかに、やさしい目が大事。これが、令和のコロナの時代には特に重要になる。
言葉がなくても目で伝わることってありますね。
そう。声じゃなくて目だけでも感謝の心は伝えられる。
コロナだけじゃなくて、自然災害とか、地球にはいろいろ困ったことが起こるけど、結局俺たちがなんとかするしかないって思うんだ。
そうですね。
俺は『ウルトラマン』シリーズにも出てたから、子どもたちから、「なんで困った時にウルトラマンは来てくれないの?」って聞かれることがある。
そんな時は、「地球は、地球人で守らなくちゃ」って言うの。これはウルトラマンシリーズを作った円谷英二さんの意思でもある。
でも、今は地球人同士が争っていて、人の心もささくれてるよね。
確かに。みんなが交流しないとだめですよね。
そうでしょ?これからの時代は特に大事になると思う。
俺は親父が大工で、下町で育ったから、天麩羅を揚げたら近所に配ったりするのは普通だった。
戦時中の国民歌謡に『隣組』ってあってさ、歌詞は岡本太郎さんのお父さんの岡本一平さんがつくったんだけど、とてもいい歌なの。お隣さん同士助け合っていきましょうってね。いがみあうより助け合いが大切なんだよ。
戦争を語ることも重要ですね。ご著書では、まむしさんの戦争体験のリアルさに圧倒されました。
うん。空襲で逃げ回った世代はどんどん亡くなってるから、伝えていくのも俺の役目だと思ってるの。
本にも書いたけど、俺が体験したのは、1945年3月10日の東京大空襲じゃなくて、5月24日の城南大空襲。品川区荏原あたりの7割が全焼しておよそ5,000人が亡くなったんだ。
当時の俺は9歳、国民学校の3年生だった。
同級生はみんな学童疎開してたんだけど、俺は両親と一緒に荏原に住んでたの。理由はよくわからないんだけど、おふくろの連れ子の兄たちは二人とも戦争に取られてたから、親父は「死ぬなら親子3人で」と思ってたみたい。
そうなんですね…。
それで、日付けが変わったばかりの24日の午前1時半くらいに空襲警報が鳴ったの。俺はもうとっくに寝てたけど、B29が飛んできて、焼夷弾をバンバン落としていって、あっという間に火の海になった。
油がすごい勢いで燃えるから、水なんかかけても無駄なんだけど、とにかく町内のバケツリレーで水をかけてね。それでも全然火が収まらないから、おふくろと逃げた。
でも、東京大空襲は死者10万人だから、城南大空襲って、あまり知られてないんだよね。5,000人も亡くなってるのに。それに、空襲の犠牲者はみんな女性や子どもや年寄り。若い男はほとんど戦争に取られてたからね。
本当の戦いって、武器を持った者同士がするもんでしょ?でも、戦争は武器を持ってない者も犠牲になる。
朝になって焼け跡をおふくろと歩いてたら、靴が焦げてきて、足の裏が痛くなった。それで、道のわきに落ちてた子ども用の革靴を拾ったら、靴の中に子どもの足首が残ってて…。
わあ、靴だ――と、俺は拾い上げた。今履いている靴よりずっといいから、履き替えていこうと思ったのだ。
(『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』P86より引用)
ズシッと、手に変な重みがかかった。見ると、片方の靴に足首が入っていた。
あ、この子、爆風でとばされたんだ。
妙に冷静に、俺はそう思った。
うわあ…。
爆弾の衝撃でスパっと足が切れたんだろうね。血もほとんど出てなかった。俺は、その靴を履いたよ。爆弾に吹き飛ばされた子どもが履いていた靴を拾って履くなんて、ひどい話だけど、それが戦争なんだ。
そうですよね。戦争があったことは誰でも知ってるけど、まむしさんが体験された具体的なエピソードをお聞きすると、リアリティが違いますね。「空襲でたくさんの方が亡くなりました」だけではイメージが湧かないもの。
「死体の山がありました」とか「焼け跡の街」なんて、菅総理じゃないけど「総合的で俯瞰的な話」じゃない(笑)?
漫画で言うと、コマが重要なの。小さなコマが大きなことを想像させるの。
わかりやすいし、心に残りますね。伝わります。
著書によると、その後はお父様の実家から通った小学校でいじめに遭うんですよね?コーリャン(高粱)という見た目がお赤飯みたいな食べ物のことを、はじめて知りました。
もうコーリャンなんて死語だよね。赤黒いから炊くと赤飯みたいになるんだよ。親父の実家の馬の餌だったんだけど、おふくろが頭を下げてもらってきて、慣れないかまどと釜で炊いてくれたのを弁当にしてたの。
それを同級生たちに「馬の餌を食べてる」ってからかわれそうになった時に、「今日は父ちゃんの誕生日だから、赤飯なんだ」とさもうまそうに食べたんだよ。今思えば人生最初の芝居だったね。本当はボソボソして不味いんだけど、おふくろが苦労して持たせてくれたものだから、喧嘩もできないしさ。
シェイクスピアじゃないけど、「この世は舞台、人はみな役者だ」ってね。俺の自然な名演技で、クラスのやつらは何も言えなくなった。
そのあと中学1年の時に、『鐘の鳴る丘』の舞台のオーディションを受けて戦災孤児の役をもらったんだけど、人生の初舞台は同級生の前でした「コーリャンのお赤飯」なんだ。
口に入れたコーリャンのお赤飯はぼそぼそしていて、のどに入っていかない。だが俺は、「ふっくらもちっとしたお赤飯を、俺は食べているんだぞ」と、美味いふりをし続けた。俺が演技をしたのは、思い返せば、この時が最初だ。だが、名演技だったと思う。
(『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』P104より引用)
すごいですね。
まあ俺は運がいいと思うよ。空襲も大きな病気も乗り越えられたし、いいカミさんにもめぐり合えた。
この年まで事故にも遭わず、元気で仕事があるっていうのはね、本当に運がいいと思う。だから、それを世間に返すためにも、チャーミングなジジイになりたいの。
日本のジョージ・クルーニーになりたいなって思ってる。
ステキ(笑)。
あとはリチャード・ギアか。あの人たちを嫌いな人っていないじゃない。みんなでああいうチャーミングな年寄りを目指そうよ。
本名、石井伊吉。1936年生まれ。中学生の時に舞台『鐘の鳴る丘』で子役としてデビュー。その後、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に出演し、一躍お茶の間の人気者に。1968年、『笑点』出演中に親友の立川談志のすすめで毒蝮三太夫に改名。1969年10月から始まったTBSラジオの『ミュージックプレゼント』は2019年に50周年を迎え、現在も放送中。1999年に聖徳大学の客員教授に就任し、介護や福祉の講義を受け持つ。著書として『毒蝮流! ことばで介護』、『人生ごっこを楽しみなヨ」など多数。