「ライオンがゲーム機?」口腔ケア製品や生活用品を提供し、次世代ヘルスケアのリーディングカンパニーを目指す「ライオン株式会社」(以下、ライオン)が、フレイル対策を目的とした介護施設向け「ゲーム機」をTANOTECH株式会社と共同で開発した。2022年に高齢者の健康増進を目的とした「健口眠体操」を開発し、TANOTECH社のゲーミフィケーション技術と融合してモーションセンサー付き介護ゲーム機「TANO-LT」を開発、2023年には利用者一人ひとりに対するレポートサービス機能などをプラスした「TANO-LTプラス」の販売を開始した。ゲームで蓄積されたデータをもとに、高齢者が介護施設で楽しみながら運動する習慣づくりを提案し、ゲームで蓄積されたデータをもとに、高齢者が健康を維持しながらいきいきと暮らせる社会の実現を目指す。「TANO-LT」の開発プロジェクトオーナーである物井則幸さんを中心に、篠原大輝さん、斎藤貴大さん、TANOTECH社の三田村勉さんにお話を伺った。
監修/みんなの介護
楽しくなければ「続かない」

「健口眠体操」で効率的に体を動かす
ライオンは「より良い習慣づくりで、人々の毎日に貢献する(ReDesign)」というパーパス(存在意義)を掲げている。歯みがき粉や洗濯用洗剤をはじめとした生活用品の販売は、人々の元気な暮らしを支えるための一つの手段だ。
「TANO-LT」の“前身”であるプロジェクトも、人々の暮らしをより良いものにするべく物井氏の発案からスタートしている。特に物井氏は高齢者がより元気に楽しく生活できる社会づくりを目指していた。
発案当時、高齢者のオーラルフレイルの危険性が世に問われ始めていたが、まだまだ歩行などの運動機能の維持が重要視されている状況だった。 物井氏は実生活の体験を通じて、口腔機能を維持する重要性を実感していた。
物井
研究員として歯みがき粉などの開発をしていましたから、高齢者が歯を失ってしまうことを防ぐためにはどうしたらいいのか、虫歯や歯周病ケアの観点から考えておりました。
しかし、私自身が親の介護などを通じて、高齢者の口腔機能が大切だと改めて気づくとともに、当時はまだオーラルフレイル(加齢による口腔機能の低下)の概念が浸透していないことに危機感を覚えていました。なので、ライオンはハミガキやハブラシなどの“物“を提供することで健康のサポートをしてきましたが、物とサービスを合わせたオーラルフレイルを含む口腔健康の維持・増進の提案にチャレンジしてみたいと思ったのです。
健口眠体操で口と運動器のケア
2020年頃から物井氏はコンセプトを描き始めていたが、当初は小さなプロジェクトに過ぎず、有志での参加者によって進められていたという。
超高齢社会を迎えた日本において、口腔ケアだけではなく、高齢者が元気になるためには何が必要か…物井氏は「口腔・睡眠・運動器」の観点から効率的な運動を提案することを考えた。
口腔機能と睡眠機能の研究を専門にするライオンの研究員と運動器疼痛研究を長年行い、運動器の機能改善に関する知見を持つ東京大学医学部の特任教授である松平 浩先生(役職当時)と作り上げたのが「健口眠体操」だった。それぞれが得意な分野を持ち寄った形だ。
物井
高齢者に限らず、健康を維持するうえで運動が重要なことは誰もが理解しています。それでもなぜやらない方がいるのか。それは、習慣をつくることが難しいからだと私たちは考えました。
この「続かない運動習慣」に着目しました。習慣づくりを考えたときに、「1時間ウォーキングして健康になる」では続けるのが大変です。そこで、「5分間」の体操で健康になれるという効率的かつ習慣化しやすい運動を目指しました。
「健口眠体操」のポイントは、“二重課題”の改善だ。「口」と「運動器」のケアを同時に行うことで、機能低下を防止する仕組みだ。例えば、口で「ぱっ」と言いながら両手を挙げるといったような動きをふんだんに取り入れたところが特徴である。
機能面だけではない。習慣化を後押しするべく、「ワクワクする楽しさ」を演出する方法にもこだわっている。
音楽プロデューサーの山移高寛氏を迎え、運動中のBGMには、軽快な音楽を取り入れた。さらに、ユーモアのエッセンスも取り入れている。思わず笑いがこみ上げてしまうような楽しい要素も随所に散りばめられ、続けたくなる仕組みを作り上げていった。
習慣化を阻害する要因
「健口眠体操」が開発され、実際に高齢者たちに提案したところ、楽しく実践されていた。一方、物井氏は課題を見つけていた。多くの高齢者が「健口眠体操」を楽しむ一方、やらされ感があり、中途半端な運動に留まっている方も少なからず見られた。
「健口眠体操」の効果が十分発揮できていない可能性を物井氏は感じていた。
物井
楽しんでくださる方がいる一方で、まだまだ私たちが目指しているレベルではないと感じていました。 習慣化するほどの楽しさをより感じてもらうためには、ひょっとしたら“ゲーム性”も必要なのではないか…『トレーニングゲーム機』を開発するのはどうか?という考えが芽生え始めていました。
もちろん『健口眠体操』を提案すれば、十分習慣化してくれる、と当初は思っていたんですが、実際は難しかった。そうして『TANO-LT』への開発に移行していったんです。
介護トレーニングゲーム機「TANO-LT」の開発前夜だ。
介護トレーニングゲーム機「TANO-LT」を開発

TANOTECH社との出会い
契機は、ある社員からTANOTECH社を紹介されたことだった。
物井
TANOTECH社の三田村さんとの出会いが大きかったですね。モーションセンサーを使った「TANO」(※)をすでに開発されていたので、「健口眠体操」と、このモーションセンサー技術を掛け合わせて、さっそくシンクロゲーム化していただきました。
実は三田村さんには、最初のご提案をオンラインで差し上げたんです。次回は対面で行いましょうとお約束した次回の打ち合わせで「健口眠体操」が搭載されたゲームを持ってきてくださって。天才なんですよね(笑)。
ゲーム化したことで、これまでは見ていただけのような方々が体を動かし、楽しんで参加してくださるようになりました。楽しく習慣化できることが分かったので、ゲームの要素を取り入れた「TANO- LT」を開発する新しいプロジェクトを立ち上げました。
※「TANO」…福祉・介護・教育現場向けに開発された、ゲーム要素を取り入れた非装着・非接触型のトレーニングツール。モーションセンサーを利用して骨格データを読み取り、体をコントローラー代わりにして直感的に運動・レクリエーション・発声・測定を行うことができる。
TANOTECH社の三田村氏にとって、開発は「容易」だったという。三田村氏の開発技術が優れている点は、応用を想定したベースを開発している点だ。
三田村
物井さんにご紹介してくださったライオンの方からは『何か一緒にできないか?』というお話を以前からいただいていたんです。ただ、ライオンの事業とゲームをどうすれば繋げられるだろう?と、考えていました。
物井さんがお声をかけてくださったころは、ライオンが次世代ヘルスケアのリーディングカンパニーを目指すと打ちだされたときで、ライオン創業者の言葉にある「利他の心」には以前から私も共感を持っていたんです。自分のためではなく人のために何かするという思いであれば、介護業界も変わるのではないかと、ぜひ一緒に開発したいと思いました。
介護施設では、レクリエーションをやらせる・やらされている関係に陥ってしまうことも少なくないのではないでしょうか。機能を改善する喜びを双方で感じられる環境を作り出せればと考えました。
「健口眠体操」をよりやりやすく、より楽しくするために改良が重ねられていった。「直感的」に行えることが、高齢者や特に認知症の方には大切だと、三田村氏は語る。
三田村
ずいぶん昔の話ではありますが、「TANO」を開発していた頃、TVゲームを母と遊んでいたんです。ただ、私の母はコントローラーの背面にあるボタンの存在をすぐに忘れてしまうんです。
そんな母の様子を見ていて、認知症の症状が出てくると、事前の情報をもとにするゲームは難しいのではないかと思ったんです。
そこで、ルールや操作方法の理解が不要で、画面を見て一緒にものまねをする、投げる動作をする、といったような「直感的」にできることに注目したんです。
高齢者の方で「ゲームなんて最初からできないよ」と決めつけてしまう方も少なくありません。ゲームについては特に女性に顕著です。ですから、そう感じさせないゲームの長さや内容にすることにも考えを巡らせました。
2023年時点の介護施設入居者の平均年齢は80歳を超えている(「みんなの介護」調べ)。ゲームに馴染みのない方も多い世代にどのようにゲームを身近に感じて楽しんでもらうか。さまざまな介護施設を訪問して、レクリエーションを行う利用者と施設職員の声を聞くなかで、テクノロジーの進化で克服できることがあるのではと感じたという。
三田村
ゲームは夢を叶えるものだと考えています。例えば、僕世代だとゲームの中で冒険の勇者になりたいと願った。子どもたちが、公園でボール投げができないとか、実際に釣りに行けないからゲームのなかで友だちと一緒に遊ぶような感覚で介護施設でもゲームができるといいなと思っています。
現状に満足せずに、よりよいものを目指す

さらに進化した「TANO-LTプラス」の新機能とは
「TANO-LT」の導入により、トレーニングを楽しむ方々は増えていた。ただ、ゲームの中でできないものが出てくると、トレーニングをしようというせっかくのモチベーションが下がってしまう人もいる。
物井
「一人一人の身体機能(運動器機能と口腔機能)がどういう状態であるかを測定させてもらうことで、『あなたならこれやりましょう』というのを提案する形ができないか考えました。それが『TANO-LTプラス』のレポートという機能として形になりました。
「TANO-LT」に新機能を実装した「TANO-LTプラス」。「TANO-LTプラス」では、ゲーム中に骨格や発声データを取得し、健康維持のために大切な6つの機能(唇と頬の力 ・舌の力・姿勢維持力 ・バランス力・足腰の筋肉・とっさの反応力)の状態を表す「アクティブ Life スケール」を作成。 さらに個人に合わせた運動メニューを提案する機能が追加された。それぞれの身体機能の可視化とパーソナライズされたメニューが運動を続けるモチベーションとなり、運動の習慣化を促す。
物井
楽しく運動ゲームで遊んでいるのですが、裏ではデータを取っています。例えば、ポーズをして肘が曲がっていて、次に真っすぐになったら点数が高くなるなど、利用者一人ひとりの状態の可視化とそれに適したメニューを提案するシステムに作り替えました。
ラジオ体操に参加してスタンプを集めて景品をもらうように、参加回数に応じてライオン製品をプレゼントする仕掛けも盛り込んだ。ゲーム中の様子がわかる写真付きレポートの提供は利用者のご家族に好評だという。 サービス開発を担当し、介護施設でのデモンストレーションを担当していた篠原氏は、現場をこうみる。
篠原
新機能によってモチベーションや身体機能向上につながったというお話を伺えたり、運動器機能や口腔機能に関するデータが得られたのはうれしかったです。しかし、職員の方の中には、入所者の方へのレクリエーションがやや苦手だと語る方もいます。職員の方にとっても、手軽に、楽しく、取り組んでもらえるようにすることが大事だと思っています。
三田村
職員の方のスタミナや負担を軽減できるように、司会ロボットを開発しています。 『盛り上げ役』のロボットがいることで、負担を軽減できるだけでなく、人材不足にも対応できる。介護現場における生産性向上に向けて今後も細かいところを改善して新しい提案をしていきたいと考えています。
いきいきとした介護の世界を自らの手で

世界中の高齢者の生活向上を目標に
本プロジェクトのメンバーにも「TANO-LT」の展望を伺った。TANOTECH社に出向してシステム開発を行った斎藤氏は、こう語る。
斎藤
日本の介護業界も現状から、新しいフェーズにステップアップしなければならない時期にいると感じています。行政もデジタルトランスフォーメーションを後押ししていますが、私たちのプロジェクトに限ったことではなく、まだまだデジタル化自体が目的になっています。
介護業界全体でデジタル技術を駆使した大胆な変革を起こすためには、ただ単にデジタル化するだけでなく、大きなビジョンを持ってプロジェクトを遂行していくことが必要だと感じています。「TANO-LT」はデジタル化時代に対応するための先駆けとなるプロジェクトだと思っています。
介護の現場でも「TANO-LT」の導入を支援する篠原さんは次のように語る。
篠原
身内の介護が始まった時にこのプロジェクトが発足しました。だからこそ、現状の介護問題が何も解決されないままの未来でいいのかという思いがありました。介護は比較的暗い話題が多いなかで、現場をより良いものにしていきたいです。自分たちが高齢者になった時にいきいきと楽しめる社会を自らの手で作っていけるようにしたいですね。
三田村
私たち世代が、次の担い手のために力を注ぐことで、その結果、高齢者にとっても有効なものが作れると考えています。TANO自体を学生が作っていくような世界にしていきたいです。
物井
みんなが言っている通りだと心から感じます。高齢者の方がわくわくと、生き生きと暮らしてほしいという願いが一番です。「TANO-LT」がそのきっかけになって欲しいと思っています。
世界に先んじて高齢化が進む日本で、「TANO-LT」を足がかりに、科学的運動習慣づくりが当たり前の世の中にしていこうと思っています。将来的には、世界中の高齢者のQOL向上を目指しています。
さらに、国、自治体、介護事業者なども巻き込んで今までの介護とはまったく違う世界を作り上げたいですね。元気な高齢者が増えれば、大きな課題となっている社会保障費の軽減にも繋がると考えています。
2023年には、アメリカで開催の大規模イベント「サウス・バイ・サウスウエスト2023」に「TANO-LT」を出展。国内にとどまらず海外を視野にプロジェクトを広げている。ゲームを通して、活気ある高齢者の増加で、介護のイメージが変わることを期待したい。
プロフィール
ライオン株式会社
TANO-LTプロジェクトオーナー
物井則幸氏

「TANO-LT」プロジェクトオーナー。社内のさまざまな研究所を渡り歩き、これまで主に口腔や睡眠分野の研究に携わる。そこで培った技術や社内研究員との繋がりを総動員し、今回のプロジェクトに挑む。
ライオン株式会社
篠原大輝氏

サービス開発を担当。介護施設などの現場に赴き、スタッフや利用者からの声を直接拾い上げ、誰もが使いやすいものづくりを進める。
ライオン株式会社
斎藤貴大氏

ゲーム機のシステム開発を担当。システム開発は未経験ながらエンジニアとしてTANOTECH社に出向して、新たなスキルを習得しながら「TANO-LT」の改良に取り組む。
TANOTECH株式会社
三田村勉氏

10歳からプログラミングを始め多くの雑誌に掲載される。鉄道教材開発会社で全国の鉄道会社向けの教材や訓練シミュレーターを開発提供。独立後は介護のかたわら、VRシミュレータシステム開発会社を起業。介護経験から、高齢者や障害者のリハビリトレーニングに役立つシステム「TANO」を開発した。
編集後記
当初、なぜライオンがゲーム機を⁉と思ったが、口腔科学などヘルスケア分野において業界を主導する企業として、健康寿命の大切さを伝えていく使命と、高齢者が元気に暮らせる社会の実現を目指すという強い意志が伝わってきた。それを「楽しく」行って欲しいという関わる人たちの熱意が、介護業界の将来をポジティブなものに変えてくれるだろう。
文:岡崎杏里