Q.74 店主の高齢化など店をたたんでしまう事情はいろいろあるかと思いますが、宇佐美さんはシャッター街についてどう考えますか?(ナンジャモンジャ・会社員)
シャッター街を見かけると、なんとも寂しい気持ちになります。景気の良し悪しや、跡を継ぐ人がいないまま店主の高齢化で店をたたんでしまうなど、いろいろ事情はあるかと思いますが、宇佐美さんはこの問題についてどう考えますか?
時代が変われば、街も変わる。駅前は高齢化社会における公共生活インフラの集積として新たな役割が見いだされつつあります
私がシャッター街を見るたびに思うのが「栄枯盛衰」の4文字です。
かつて電車とバスが人々の移動手段の主流であった時代、駅前・バス停前に人が集まることはごく自然なことで、商店街が発展するのは時代の要請でした。
しかしながら、自動車社会が到来し「一家に一台」、さらには「一人一台」の自動車時代が到来すると、電車やバスが衰退し人の流れが大きく変わり、従来人の流れが中心であった商店街は衰退し、都心部の家電量販店や郊外のショッピングセンターに消費の主流が移っていたのは、「時代の流れ」としか言いようがありません。
そして今では都心部の家電量販店すら、ネットショップの勢いに押されて店を閉じています。
他方で、商店街の側にも問題があり、いつまでも「駅前は人が集まる優良地」という認識を改められず、漫然と「昨日も明日も変わらない」商売を続け、客足が減ってきても行政の予算頼りのイベントを行う程度の工夫しかしないところがほとんどでした。その結果、商売の不振から店を閉めることになっても、家賃の相場を下げずに高い家賃を設定し続け、新たな店子が表れず新規参入が無いままシャッターが閉めっぱなしとなった店が増えていったのもまた、商店街側の自己責任です。
このような状況を招いたのは、行政側が一時しのぎのイベント用予算をバラマキ続け、また店主側も年金や貯蓄で生活が困らないという余裕の中で真剣に商店街の将来について考えてこなかった、という無責任の連鎖の結果です。
もはや駅前に商店街が存在する必然性はなくなっています。そういう時代の中で、駅前は高齢化社会における公共生活インフラの集積として新たな役割が見いだされつつあります。いわゆるコンパクトシティというものですが、現在では、かつて商店街であった地に介護施設や病院などを建設し、不採算化した公共交通インフラを見直し集中させ、商店街に残った数少ない店と協力して、衰えゆく地方都市の縮小均衡を支える最後の砦とする事例が増えてきています。
そんなわけで私はシャッター商店街を見るたびに、中島みゆきの「時代」という曲の「そんな時代も、あったねと、いつか笑って話せるさ」という歌詞が頭の中で流れます。時代が変われば、街も変わるのです。