認知症の母の生き方と逝き方に一片の悔いなし
どんな旅路も、いつかは終わります。
母と一緒に伴走した認知症ケアの旅路は、2019年10月1日に終着点に到達しました。母は、最後まで母らしく、自分の意思をしっかりと通して、大好きだった自宅の自室で逝きました。病名は、老衰。享年89歳でした。
2010年1月、オーストラリアから慌ただしく帰国して母と同居を開始。ドタバタの介護生活が始まりました。それから9年9ヵ月の月日は、振り返ればあっという間でしたね。
不思議と涙は出ませんでした。母が亡くなってそろそろ11ヵ月が経とうとしていますが、いまだに泣いたことはありません。
やせ我慢?
いえいえ、泣く理由が見つからないのです。“認知症ケアの集大成”ともいえる母の最期のときを見守れたことは、何ものにも代えがたい私の素晴らしい人生体験となりました。今の私にあるのは、安堵感と達成感です。
認知症の母の生き方と逝き方に一片の悔いなし。
「死」をタブー視せずに“理想の逝き方”について話し合う
2018年に公開された「毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル 〜 最期の時。」は、「“終わりなき介護”から“終わりからの介護”へ」というテーマで、介護の先の「死」をしっかりと見据え、誰とでもオープンに語ろうと呼びかけた作品でした。
死ぬことをタブー視しない。結局のところ、死は誰にでも平等に訪れる“人生最期で最大のイベント”です。だからこそ、しっかりと「どう死んでいきたいのか」を考える。本人とも話し合い、本人も家族も納得した死を迎える準備をして、そのときに臨むようにしたい。
そのために折に触れて私は母と「どのように死にたいのか」ということを話し合ってきました。この話し合いが、後々の母の医療方針に大きな影響を与えました。
備えあれば憂いなし。
認知症の介護は<愛よりも理性>
よく「認知症になると何もわからなくなる」と言われますが、母に関して言えば、それはまったく当てはまりませんでした。理由の1つとして、母が2013年から認知症の薬を服用していなかったことが関係あるかも知れません。あまりにも副作用が強かったため、やめざるを得なかったというのが正直なところです。
母は、当然ながら<忘れる>ことはしょっちゅうでしたが、最後の最後まで自分で意思決定ができる理性と感情を持ち合わせていました。薬でボーッとしていることがなかったのが大きかったと思います。
また母が薬の服用をやめた年に、私にとって“唯一無二の認知症ケア”とも言える「パーソン・センタード・ケア」を、発祥の地であるイギリスまで学びに行きました。これが母の介護のターニング・ポイントだったと思います。私自身、“投薬”ではなく、“ケア”で母の認知症と最後までつき合う覚悟ができたのです。
パーソン・センタード・ケアの極意は、認知症の本人(=母)の立場から見えている世界を共有することです。そのうえで、「母の今のニーズは何だろう」と常に考える。そしてそのニーズを達成するために、介護者である自分がどう動けばいいのかを戦略や想像力を総動員して考えるのです。
「認知症の介護は<愛よりも理性>である」。これは私の信念であり、結論です。
認知症になった母のことを“可哀想”だなんて思ったことは、1ミリもありません。一方的に「これもあれもしてあげたい」などと思ったこともありません。パーソン・センタード・ケアにおいて一番厄介なのは、こうした<自分語りの熱き思い>だからです。
最期まで母という主役のために
このパーソン・センタード・ケアのスキルが私にあったからこそ、母は自分が思うように逝けたと考えています。そして、そんな私たち親子を支えてくれた緩和ケア医療チームの存在も大切でした。関口チームは、医師が中心人物ではありません。母が最期まで主役であり、その主役のためにそれぞれの立場からできることのベストを尽くすのです。
母の病院に行きたくないという意思を尊重し、チームの中で在宅での緩和ケアをどのように行うのか、徹底的に話し合いをする。介護の先の「死」に向かうときにオープン・マインドであることがどれだけ大事であるか、つくづく思い知らされました。そういった観点から言えば、手前味噌で申し訳ありませんが、母にとって最高のチームをつくれたのではないかと思っています。母が最後に声を振り絞って言ってくれた「ありがとう」の言葉を、私は死ぬまで忘れないでしょう。
30回の長きにわたって連載をさせて頂きましたが、今回で最終回となりました。皆さんのご愛読に心から感謝いたします。また、この企画を実現してくださった編集部の皆さんにも御礼申し上げます。ありがとうございました!
またどこかでお会いできることを楽しみにしています。

2020年10月
関口祐加
新しく始まっている旅路の中で