撮影当時の関口監督の心境は?
いわゆる感傷的や感情的になるというよりは、しっかりと母のことを撮影しようと考えていました
この動画は、まさしく母の認知症初期の頃ですね。当時、私の生活拠点はオーストラリアのシドニーで、10歳の息子と一緒に住んでいました。
実は、シドニーにいながらすでに母の認知症の兆候を感じていたのです。息子に何回も同じ洋服やら本を送って来たりしていましたから。そのうちに英語で住所を書けなくなったのでしょう。まったく荷物が来なくなりました。
この動画は仕事で帰国したときに撮影したのですが、まずは母の状況を把握しよう、という気持ちでしたね。
では、なぜ冷蔵庫だったのか?あれだけ手作りの料理にこだわっていた母が、出来合いの食べ物だけを買うようになり、「だらしない」ことが大嫌いだったのに、冷蔵庫の中がグチャグチャで衝撃的だったからです。
それと、とても活動的だった母が、日中は寝ていることが多くなり、夜にゴソゴソ活動するというのにも驚きました。今まで見たことがない母の行動パターンでした。
当時の心境はというと、自分でカメラを回していたので、いわゆる感傷的や感情的になるというよりは、しっかりと母のことを撮影しようと考えていましたね。
そのとき関口監督がとった行動は?
絶対に否定的なことは言わないようにしました。それが私にとっては、どんなに驚くことでもです
母の言動に対して、絶対に否定的なことは言わないようにしました。それが私にとっては、どんなに驚くことでもです。
母の負けず嫌いな性格をよく知っていますし、母を否定することは、決して良い方向にいかないだろうと本能的にわかっていたからです。
私は、母の認知症を確信していましたが、母は絶対に認めないだろうということもわかっていました。では、どうするか。ここは冷静になって、母のことを観察すべきだと思いました。
この時点では、日本に帰国することをまったく考えていなかったので、なおさら母の生活全体がどのようになっているのか。どこが大丈夫で、どこに助けが必要なのかを見極めようと考えたんですね。
いつも完璧を目指し、世間体を気にして生きてきた母のことを、私はずっと苦手に感じてきました。
帰国するまで29年間もオーストラリアに住み続けた理由のひとつは、母から逃げるためだったと言っても過言ではありません。母との相性は、決して良くなかった。ところが、認知症初期の母に対して初めて好ましい感情を抱いたのです。
母は、人生で初めて自分がやりたいようにやっている。寝たければ寝るし、起きたいときに起きる。
また、母の告白によれば、家族のために料理を毎日毎日作り続けることは大きな負担だったらしく、あまり好きではなかった料理から解放されて幸せだと言ったのです。
さもありなん、ですよね。
関口監督から読者へ伝えたいメッセージは?
「認知症の人を観察する」というとちょっと冷たい感じに聞こえるかも知れませんが、引いて大局を見る
「認知症の人を観察する」というとちょっと冷たい感じに聞こえるかも知れませんが、引いて大局を見ることでわかることがあります。
介護生活を始めるにあたって、どこが大丈夫で、どこに助けが必要なのか。助けが必要だとすれば、どんな助けが適切なのか。それは自分ができることなのかどうか。
常に認知症の人の観点に立って、冷静に認知症の人のニーズを探ることが重要だと思います。
また、自分がどのように生きて、どのような価値観を形成しているかが、実は介護をするうえで大きなプラスにもマイナスにもなると思います。
例えば私は、オーストラリアという多民族国家で常に「アジア人」という色眼鏡で見られ、その殻を打ち破るのに腐心してきました。
だから、母が認知症になった途端に「認知症の関口さん」と見られることに反発する気持ちが理解できたんだと思います。
さらにいうと、私自身が「自分の人生において好きなことをする」という生き方を貫いてきたからこそ、母が認知症になって初めて、やりたいようにやっていることを負のイメージで捉えるのではなく、むしろ好ましいとさえ思えたのだと思います。