酒井穣(さかい・じょう)です。前回の連載第2回「高齢者福祉は、"考え方"ではなく旧石器時代から続く人間の本能!?」では、個性とは「欠損」であり、それが多様性を生み出すことを述べました。社会福祉とは、そうした「欠損」が環境適応の上で(短期的には)有利に働かなかった個体を守る長期的に意味のあるものであり、本能である可能性が高いです。
この背景には、利他性があり、社会福祉の中でも高齢者福祉(高齢者に対して発揮される利他性)だけは、人類独自の戦略である可能性があります。今回は、そんな高齢者福祉の戦略上の合理性について、経営戦略論の視点から考えてみます。
短期で結果を出せない人はクビ!?
日本もアメリカと同じ、弱者が淘汰される社会へ突入
よく、アメリカ型の経営は、短期戦略だと言われます。四半期ごとに業績を評価し、それが少しでも悪ければ、経営者はもちろん従業員の多くもクビにします。これによって、短期的にビジネス上の結果が出せない人材が淘汰されやすい環境が生まれます。
アメリカにあるのは、短期的に結果が出せる才能(遺伝子)を持った人材が勝ち残っていく環境です。この才能が「欠損」している人には生きにくい社会でしょう。これに対して日本型の経営は、長期戦略だと考えられています。
業績の上下には運の要素が大きく入り込む「仕方のないこと」として、経営者の責任は(実質的には)問われません。ずっと業績の出せない従業員であっても、そうそう解雇されません。
その代わり、日本の経営者には人間としての人徳が求められ、従業員を家族のように扱うことが求められます。従業員にも忠誠が求められ、日本における転職は(基本的には)問題行動だと考えられ、信用を失います。そんな日本では、アメリカとは真逆で、短期的に結果を出そうとする人材のほうが淘汰されやすい環境ができています。長期的な下積みによって信用を獲得し、それがいつになるかわからないけれど、自分の利益として跳ね返ってくるという仕組みです。
目先の利益に左右されないという才能を持っている人のほうが有利に生きられる社会であり、この才能が「欠損」していると生きにくい社会になっています。短期戦略のアメリカのほうが、一発逆転の成功をおさめるには適しています。
だからこそのアメリカン・ドリームですし、成功を急ぐ若者を世界中から惹きつける力があります。逆に日本では短期的な成功は「成金」として嫌われ、長期的に信頼を得ていくことが重視されます。長期の信頼が命ですから、個人の人生さえ超えた「家柄」と「コネ」が重要になり、社会階層が固定化されやすいという側面があります。ヨーロッパにも、これと似た傾向がありますね。
全世界がアメリカ型の世の中に
日本は社会福祉を保つことができるのか!?
日本において儒教が受け入れられ、アメリカでは流行らないのは、日本にはもとから儒教を受け入れる土壌があったからです。日本の文化は、ある意味で年齢差別的であり、そこはアメリカを見習うべき点も大いにあります。
ただ、文化の多様性自体は、人類が滅亡してしまわないために、非常に重要なのです。日本の長期戦略的な文化にも、一般に信じられている以上の意味があるはずです。なお、アメリカがこうした文化を備えているのは、日本とよく似た傾向のあるヨーロッパ文化への反動としての歴史的な意味もあるでしょう。
このように、アメリカと日本では経営の環境が異なります。それは、アメリカと日本では、生き残ることができる人材の才能(または欠損)が異なるということです。もちろんこの議論は、あくまでも理解のための全体論であって、個別にはアメリカにも長期戦略の企業があるし、日本にも短期戦略の企業があります。
また、時代としては全世界がアメリカ型の短期戦略に近づいているということもあるでしょう。この議論がステレオタイプにすぎることは理解していますが、わかりやすさのために、今後もこのメタファーを使います。
人類は多様性のおかげで自然淘汰を乗り越えることができた!?
その背景にある弱者救済の社会福祉性とは?
ここで、こうした環境の違いは、自然に生まれたものではなく、人類が生み出してきたものだという理解も大事です。このように、人類が生み出した環境によって起こる淘汰を、とくに「人為淘汰(じんいとうた)」と言います。こうした人為淘汰もまた、自然淘汰と似た形で進行し、進化論に従います。ただし、人為淘汰においては、自然淘汰よりも速い速度で進化が起こるという点が重要です。
人類はそうして、他の生物とは比較にならない圧倒的な優位性を獲得してきたのです。気がつくと思いますが、文化もまた、人為淘汰のフレーム(枠組み)です。特定の地域が、他とは異なる文化を生み出せば、最終的には多様性につながります。
この多様性によって、人類は自然淘汰を有利に乗り越えてきました。ですから、どの文化がより優れているかという問いには意味がありません。結果として生き残る文化と、偶然によって淘汰される文化があるだけです。
個人レベルでは、自分にあった文化を選ぶことも(理論的には)可能ですから、全体としては生存できる個体数を増やす方向に働くはずです。ここで、文化には弱者救済という社会福祉的な側面があることも無視できません。
その種において保守本流となる競争では勝ち残れない個体に、別の世界で生きられる状態を付与するからです。たとえば現代社会は、広い意味での知力(偏差値だけではない)によって勝敗が決まる環境になっています。
知力の足りない個体は、そうした環境だけしか準備されていなければ、生存できません。しかし、知力とは異なる才能が求められる芸能やスポーツといった文化は、人々の生活を彩ることに貢献するだけでなく、周辺産業も含めて、大きな雇用も生み出します。ここに社会福祉性があることは否めません。
文化の中には、税金から助成金が与えられたり、大口の寄付者がいないと存在できないものも多数あります。宗教はそもそも社会福祉的な働きをしますが、独立採算とは言えません。助成金や寄付がなければ存在できないということは、自然状態(人間の場合は市場の原理)では淘汰されるということを意味するでしょう。
この背景には、弱者救済という社会福祉性があることは明らかです。そして、そうした社会福祉性は、人類の多様性を担保してきました。
生物学的に日本人は多様性の確保に真面目!
長期的には日本文化が生き延びる!?
社会福祉は、生物にとって長期戦略になっていることは、これまでの話からも理解できると思います。短期的には、自然淘汰から脱落してしまう個体を助けるコストを支払うメリットは見えません。しかし長期的には、それによって多様性が担保されるということは、これまで考えてきたとおりです。
アメリカの社会福祉が「スカスカ」なのは、多くの人が聞いたことがあると思います。アメリカで盲腸になると500万円以上を支払うことになるといった事実は、日本では驚くべきこととして話題になります。
アメリカは、より自然状態(市場の原理)に近い社会だということも可能でしょう。強い人間には生きやすい社会ですが、少しでも弱さがある人間には厳しすぎる環境です。
そこからは、短期的な強さを発揮する人材が多数生まれてくることも自明でしょう。逆に、日本の社会福祉が世界的に見ても充実している背景には、やはり、文化的な側面があるでしょう。日本(およびヨーロッパ)は、国民が生きる環境を自然状態にまかせるのではなく、弱者救済が社会システムに組みこまれています。
日本は画一性が高いと言われますが、生物学的に考えた場合の日本は、人類としては、多様性の確保に真面目な文化を持っているとも言えるわけです。
日本から、短期的に強いアメリカ型の人材が生まれてこないことが問題視されることもありますが、それもまた自明であるとも言えます。多様性の担保という意味からも、日本が超高齢社会に突入し、高齢者福祉をどう考えていくかは、非常に大事なトピックです。
識者による予測のほとんどは、このままいけば、日本の高齢者福祉が崩壊することを示唆しています。崩壊するのは福祉のための財源なので、もちろん、高齢者福祉だけが崩壊するのではありません。しかし、日本の社会福祉の崩壊から、数的に大きなインパクトを受けるのは高齢者です。
どんどん進む淘汰。その先に待つのは…
人類史が教えてくれる通り、それは“戦争”
残念ですが、短期的には、日本の高齢者はかなり厳しい環境に投げ出される可能性が高いでしょう。しかし日本では、ここまで考えてきたとおり、社会福祉の崩壊は文化的には許されないことのはずです。
日本の社会福祉が崩壊するとき、日本は(より)アメリカ化することになります。それはつまり長期戦略の敗北であり、短期戦略の勝利でもあります。
その先にあるのは、利他性を持った個体が不利になる、利己的なばかりの人材が勝ち残るという画一的な人類社会です。さまざまな文化もまた軽視され、知的な才能をもった人材だけが勝ち残る、超二極化の状態が当たり前になります。
もちろん、アメリカ型の文化にも良いところがあります。また、現代社会では、文化レベルでの人為淘汰が働きつつあると考えたほうが正しいでしょう。
しかし、この人為淘汰において日本型の文化が負ける場合は、日本でも雇用の安定性は失われ、ホームレスが増えていき、生活保護の受給者もずっと増える(そのための財源はないため、生活保護も厳しくなる)ことになります。
その先にあるのは、人類史が教えてくれるとおり、戦争です。
善悪の価値観は人類のみ!
それは人類の勝ちを意味する?
私たち人間は、損得と善悪という二つの価値観の間で揺れ動いています。損得は、アメリカ型の短期戦略が示す価値観です。これに対して善悪は日本型の長期戦略が描く理想です。得をするとわかっていて、善い行いをするのは簡単です。
しかし損をするとわかっていて、善い行いをするのは難しいものです。貧しくとも立派な人物が尊敬される文化があるのは、善悪のほうが、損得よりも大切な価値観と認識される場合もあるからです。こうして、人間に善悪の価値観が備わっているのは、それが長期的には進化の中で勝ち残ることを意味しているでしょう。
そうでなければ、善悪の価値観は存在していないはずだからです。善悪の価値観、すなわち倫理にも、進化論上の合理性があると考えたほうがよいのです。ここで、法律とは最低限の倫理にすぎません。
合法であるからといって、特に富の再分配において脱法が通る社会(損得を善悪に優先させる社会)は、人類の場合は持続可能ではない可能性が高いのです。
さもなければ、倫理のようなものは生まれてこなかったはずだからです。多くの人は、二極化によって戦争(死滅)が近づいていることに直感的に気づいています。
資本主義社会が二極化を進めているという事実を描いたトマ・ピケティの本『21世紀の資本』(みすず書房/2014年)が世界的なベストセラーになったことは偶然ではありません。
ベストセラーというのは、内容が良いからベストセラーになるのではなく、多くの人の気持ちを代弁してくれているからこそ生まれるのですから。ここで善悪の価値観は、他の動物にはない、人間しかもたない価値観であることにも注目してください。
動物は子供が真っ先に殺される
人類は道具のせいで…全員で殺し合う
人類の世界で二極化が止められないということは、善悪の価値観が負けるということです。そもそも、他の動物にも備わっている損得の価値観が善悪に勝るのなら、人類は人類の特徴を失うことになるわけです。弱者が淘汰されるのは善いことではないと感じる、私たちのその価値観こそが、進化上、人類を人類たらしめてきのです。
だからこそ、弱者がどんどん淘汰されるような社会では、他の動物と同様に、平然と殺戮(戦争)が行われてしまうのでしょう。なお、他の動物においては、人間の戦争のように、同種は殺しあわないというのは幻想であり間違いです。
たしかに、他の動物においては、大人同士の殺し合いはほとんどありません。そのかわり、他の動物における同種の殺戮は、大人が子供を殺すという形式をとります(一般に信じられている以上に頻繁にあります)。
これは単純に、他の動物の場合は、大人が持っている攻撃力に対称性があり、大人が殺し合えば、自分も無傷ではいられないからです。たとえばヘラジカの大人のオス同士は、ツノの大きさや筋力に大差はありません。しかし人間の場合は、道具としての武器を発明してしまいました。
結果として、強い武器(たとえば拳銃)を持てば、子供でも大人を殺害することさえ簡単です。人間は、他の人間との間に、攻撃力の非対称性を容易に生み出せるようになってしまったのです。
人間は、道具を使えることによって、大人同士が殺しあうという状況(戦争)に、短期戦略上の合理性を与えてしまいました。他の動物であれば、飢えれば(基本的には)子供が殺されます。しかし人間の場合は、戦争になってしまうということです。
高齢者福祉が大事なのではない!
高齢者福祉が大事だと感じる国民性が大事!!
善悪の価値観が備わっているのは人間だけです。また、利他性は他の生物にも備わっている特徴ですが、これが、高齢者に対して発揮されるのは(ほぼ)人間だけです。ここから、高齢者福祉と、善悪の価値観の存在の間になんらかの関連性を疑っても、それほどおかしなことではないでしょう。
少なくとも私たちは、高齢者が悲惨な状況にあることを「喜ばしいこと」とは感じません。この背景にあるのは、そういう感じを生み出している遺伝子の存在です。いかなる生物であっても、大人としての成熟を超えて高齢化すれば、生存確率が下がります。
そうした個体を弱者として認知し、その生存を助けようとする背景には、進化論上の長期戦略があるはずです。多くの生物は、子供を弱者として認知し、その生存を助けようとします。そうした中で、人間だけが、子供だけでなく、高齢者の生存も助けるのです。
本当に不思議なことではありますが、この事実は、進化論によって支えられていると考える必要があるでしょう。
年長者を敬う儒教を受け入れた日本が、長寿大国であることの背景にも、遺伝子が関わっているでしょう。世界でもっとも高齢化が進んでいるから、高齢者福祉が大事なのではありません。高齢者福祉が大事だと感じられる国民性があればこそ、高齢化が進んでいると考えるべきところです。
これは文化という人為淘汰の結果であり、その遺伝子は勝ち残ることができるのか…その結果は環境によって決まるというのが、進化論の結論なのです。
なお、近年の日本では、文学部の存在が疑問視され、必要性がないということで縮小の方向にありますね。これは、社会福祉性をもった文化の否定であり、社会福祉の終わりのはじまりです。
「文学部など必要ない」という言論は、長期的には「社会福祉など必要ない」という価値観に直結しています。この直結を理解したとき、今の日本で起こる様々な議論の多くが、社会福祉の終わりを示唆していることにも気づくでしょう。恐ろしいことです。
次回は、これまでの連載第1回〜3回の内容を踏まえて「根本的な解決策1」を考えてみます。今後の日本の社会福祉は、もはや、表面的な改善ではどうにもなりません。
沈みゆくタイタニック号の中で、シャンデリアの電球を取り替えるようなことは、もうやめないとなりません。本当はなにをしないといけないのか、それについて考えてみます。