発症した直後のことはあまり覚えていない
もう助からないというのが大半の人の予想だった
昔なじみのイラストレーターから彼の弟が脳出血で倒れたというメッセージが入った。左半身麻痺で、退院してもおそらく自力で車椅子に乗ることは不可能だというのだ。
身体の状態やコミニュケーションについて詳しいことは聞いていないが、リハビリ病院を退院してから施設に行くのか、自宅に帰ってくるのか悩んでいるという。
弟さんは、80歳のお母さんと二人きりで同居しているらしい。しかもお母さんも身体が丈夫なほうではない。
このまま、施設に入ってしまうと弟さんは社会とのつながりが、ほとんどなくなってしまう。自宅に帰っても高齢のお母さんと二人きりで暮らしていくのは難しい。何かいい考えは、ないものか?という趣旨のメールだった。
こんな連絡をもらったボクは、ボク自身が発症直後の頃どう考えていたか、というよりもボクたち家族がどう思いながら今に至ったかを彼に話したほうがいいと考えた。
この弟さんと同じ発症してから6ヵ月前後の時期がどんな感じだったか、実はあまりよく覚えていない。
1ヵ月ほどをICU(集中治療室)で過ごした。もう助からないだろうというのが大半の人の予想だった。助かっても目を覚まさない、目を覚ましても記憶はないし身体ももう動かないだろうと…。
最初の難問は
どんなリハビリ病院に移るかだった
これでもかというほど最悪な状況だったという。けれどボクは、そこから目を覚まし、「誰だかわかる?」と聞かれれば頷くこともできるほどになった。
急性期を過ごした大学病院では口から食事をとることは、まだできず管で胃に流し込んでいた。もちろん起き上がって足を地面に着けて歩くなんて考えられない状態だった。
リクライニングの大きな車椅子にようやく横たわっていても、身体は斜めにずるずると崩れ落ちてまっすぐに座っていることすらできなかった。うがいのやり方も忘れて、1時間前のことも覚えていられなかった。

だから大学病院からの退院が近づくと、そんなボクを受け入れてくれるリハビリ病院を探さなければならなかった。
しゃべることもできず、無数の管につながれたボクにとっては、どんなリハビリ病院に移るかがまず最初の難問だった。
大学病院のソーシャルワーカーさんが予算や今の状態から管だらけのボクを受け入れてくれるリハビリ病院を一生懸命探してくれたそうだ。でも、家族はどうしても納得がいかなかったという。
「パパはまだ良くなるはず
スパルタなリハビリ病院をお願いします!」
今のままの状態では、もうこれ以上はあまり良くならないであろうという判断から、ゆっくり過ごせる施設をすすめられた。リハビリ期間が過ぎてもそのまま滞在できる療養型の施設に入るという提案もあった。
しかも「ここは温泉もあっていいんですよ」と自宅から5時間もかかる施設も候補に挙がったという。何もわからない家族は「え?そんなに遠くに行っちゃって毎日会えないじゃないですか?」なんてことを言っていたらしい。
いま考えれば、それは「もうその状態では、受け入れてくれるところはわずかで、ここなら人も環境も設備もいいですよ」と言ってくれていたのだとわかる。
家族は無謀にもなんの根拠もなく「まだパパはよくなるはずだから、リハビリがバリバリできるスパルタなリハビリ病院を希望します」そう言ったそうだ。ソーシャルワーカーさんの提案と家族の意見は真逆だった。
あの手この手を使って、ベッド代も馬鹿にならない、365日しっかりリハビリをしてくれるリハビリ病院に転院が決まった。
そんなに余裕もなかったであろうに、「ここはどうしても頑張るところ」そう家族は無理してその病院に転院させてくれた。
病院の食堂で
妻と二人で泣きながらリハビリを繰り返した
転院してからは、朝はパジャマから私服に着替えて、歯磨きも起きてする。1日最低3回以上のさまざまなリハビリの予定が組まれる。食事も食堂でみんなと食べる。
この頃からやっと口からとれるおもゆの食事も始まった。自分でスプーンを口に運ぶことも忘れてしまっていて、スプーンを持っても動作が止まってしまうような感じだった。食堂ではいつも最後まで残っていた。
食べることすらリハビリなのだと思うとつらかった。
その頃、よく妻が仕事帰りに滑り込みでリハビリ病院の食堂に顔を出しに来てくれた。妻の姿を見るとホッとした。この苦行を助けてくれる人がやってきたと。
「もう食べたくないんだ」そう言いたいが言葉も出ない。
妻は、顔を見て察知してくれてはいるんだろうけど、「あと一口」そう言ってボクのスプーンを持った手にそっと自分の手を添えて口に運ぶ。子どもだましのようにもう一口、もう一口と魔法のように口に運ばれていく得体の知れない食べ物。
つらくて二人で泣きながら食べたなぁ…そんなことをポツポツと思い出す。
「家に帰ってくれば、もっと良くなると思うんだよね」
家族はボクにそう言ってくれた
「パパ!ペッて吐き出すの、そのまま口の中に入れてると苦しいよ、、ああ違う、、、、飲んじゃ駄目!」同じことを何百回、何千回とやって脳に思い出させる。一度口に含んだ水を吐き出すことすらボクは忘れていた。
その頃の家族のメモには、そんな状況が克明に書かれていた。
そのリハビリ病院にいる間にボクは何百回そんな練習をしただろう。退院する頃にはうがいができるようになっていた。文字が書けることも発見した。
リハビリ病院の思い出は怠け者のボクにとってはかなりつらい思い出だった。
そしてまた、2択を迫られた。自宅に帰るか、施設に行くか。ボクの場合、高次脳機能障害の治療ということで、さらに大学病院に転院もしたが、そのあとは自宅に帰ることしか考えられなかった。
その選択に、専門家や関係者は驚いていたそうだが、家族の意思は強かった。予算内でボクがここならいいという施設がなかったこともあるが、「家に帰ってくれば、もっと良くなるんだと、思うんだよね」。そういう家族の変な自信が帰宅を可能にしてくれた。
もちろん介助をしてくれる妻がまだ若かったこともある。50歳だった。それに息子も自宅から出勤していたし、娘もいた。3人が協力してくれる恵まれた環境だったからこそ自宅にボクは帰れた。
自分で食べ物も口に運ぶこともできなくなって、車椅子に座ればどんどん斜めに傾いていく。そんな状態での退院だった。
おむつ交換だって身体が動かないから大変な作業だったし、お風呂はどうしよう?と問題は山済みでの退院だった。でも退院の次の日、ボクはリビングで包丁を使って梨をむいていた!!(笑)
できないと思っていたことが次々とできるようになっていった。このお話はまだ次回。