集団の中に入ると、なぜか人は自分の意志で個性をなくそうと振る舞う。そのことに対する“違和感”を言葉にして他者に伝えたいという強い思いが、水無田氏を社会学の研究へと駆り立てたのだという。今、世界はコロナ禍をきっかけに、これまで人々が違和感を覚えながら見て見ぬふりをしてきた不都合な事実に直面している。「当たり前の中には間違いもある。それを正そうという異議申し立てに耳を傾けるのが私たちの務め」と語る水無田氏。過去の事例をもとに社会学の果たす役割について伺った。
取材・文/みんなの介護
社会の“当たり前”に潜んでいる問題に目を向ける
みんなの介護 そもそも「社会学」とは、どのような学問なのでしょうか。失礼ながら、今一つ漠然として捉えきれないのですが。
水無田 社会学は、端的に言うと「人と人が共にあることを考える学問」です。私たちは朝から晩まで、さまざまな行動を取っています。欠伸をしたり伸びをしたりくしゃみをしたりといったものは生理的な反応ですが、今、こうして私が取材で話している行為は、役割や職業として「社会的意味」を成している。人間の行動の中から社会的意味を成す行為を抽出し、科学的に検証するのが社会学になります。
みんなの介護 ご著書(『社会を究める』若新雄純・小川仁志/共著)では、幼い頃から集団行動が苦手で、園児が同じ制服を着て帰りのバスを整列して待っていることに恐怖を感じて卒倒した、と書かれています。その感覚をほかの人にうまく伝えられないもどかしさから読書の虫になり、やがて社会学と出会ったそうですね。
水無田 社会学というフィルターを通して考えると、集団における行動は日常的な慣れや習慣によって成り立っていることがわかります。たとえば、私が大学の授業で次のように学生に質問したとします。
「君たちは私が教室に入ってきたとき、全員が机を前にテキストを広げて座って待っていてくれていますが、それはどうしてなの?」
すると、ほとんどの学生はぽかんとして答えられません。なぜなら、それが当たり前であると、“教室ではこう振る舞うべきなのだ”と、子どもの頃から何年もかけて訓練されて習慣化していることで、考えなくなっているからです。
静かに授業を聞いてくれるのは、もちろん教える側としては大歓迎。ただ、皆が当たり前だと思っていることには、実は根深い問題をはらんでいる場合もあります。
みんなの介護 根深い問題とは具体的にどういったものでしょうか。
水無田 数年前、某医大が入試の際、女子の点数を減点していた、という事件がありました。
その背景として大学病院における劣悪な労働環境が挙げられます。勤務医は「当直」という勤務シフトがあり、週40時間の労働時間の制限を受けません。そのため、宿直勤務の翌日にも日勤となるなど、ハードワークが常態化しています。つまり、「いずれ結婚して、家庭責任を取らなければならない女性には勤まらないから」という考えから、あらかじめ男子を多く入学させるために、致し方なく点数を操作していた、というのが医大側の言い分でした。
それだけでも開いた口が塞がらないのですが、ネット上でも「仕様がない」「これは必要悪」との意見が見られました。さらに、医師の人材紹介会社の調査では、この減点を「理解できる」「ある程度理解できる」と回答した医師が65%に上る結果となるなど、問題の根深さについて、改めて考えさせられました。
合理的に考えればおかしなことが覆せなくなる「制度的惰性」
水無田 この医大が行った行為(点数操作)は女性差別であることは言うまでもなく、「法の下の平等」を規定した憲法14条にも違反しています。さらに、これまで医学の権威や医師の職業威信は、基本的に生得的地位(性別や身分などによる地位)ではなく業績原理(努力の結果として得た知識や能力)をもって社会的地位が配分される、という近代社会の原則によって認められてきました。今回の事件はそれにも反しています。
みんなの介護 国家や社会を裏切る行為になるということですね。
水無田 はい。なにより、今は高齢化が進んでいますから、医療現場に優れた人材が集まってくれないと多くの国民が困ります。
社会的に重要な領域で最適な資質を持つ人ではなく、つまるところ“使い勝手のいい人”が優先して選ばれて医療現場で従事する状況が続けば、やがては医療分野の水準がおとしめられる可能性も否定できません。
結局のところ、日本国憲法、近代社会理念、公共性に反してまで守られてきたのは「国民の利益」ではなく、医療のブラックな職場環境にほかならなかったんです。
多くの人たちが慣習やその場の「座の論理」にのまれてしまうと、意外に気がつかなくなっている事実があります。合理的に考えればおかしいことが慣習になって覆せなくなる問題を社会学では「制度的惰性」と言います。
社会学には、そのような理不尽や非合理性に対し、「それはおかしいんじゃないか」と指差す機能があるんです。

想像力を養うために学びがあり、知識がある
水無田 大学の授業でマイノリティ(社会的少数者)の問題を取り上げても、なぜ、それが批判されるのか、必ずしも皆がその理由を理解して共有できるわけではありません。こういった問題について、私はすぐに理解や共感を求めなくても良いと思っています。ただ、ある事柄について“おかしい”と考える人たち、痛みを覚える人たちがいるということに対する「想像力」を養うために学びがあり、知識があるのだということだけは繰り返し説明しています。
想像力といえば、少し前、ある長寿バラエティ番組の30周年記念特番で、80年代後半から90年代にかけて人気を博した、同性愛者をおもしろおかしく描いたような風体の男性キャラクターを復活させて抗議が殺到し、大炎上したことがありました。昔は「おもしろい」と思われていたギャグが、四半世紀の時を経るうちに社会通念が変化した結果、視聴者が笑えなくなってしまっていることに制作側が気づかなかった事例です。まさに、想像力が時代の変化に追いついていなかったことが問題でした。
みんなの介護 その炎上騒動はとても印象に残っています。一方、そういった抗議のせいで「テレビがおもしろくなくなった」という声も上がりました。それについてはどのようにお考えですか?
水無田 そういった意見は、これまでマジョリティ(多数派)の側の視点でしかものを考えてこなかった人から寄せられたものではないでしょうか。LGBTQなどマイノリティの意見を「めんどくさい」「そんなことを考えている人の方がおかしい」と切り捨てたり、女性差別的なCMを見て「こんなに爽やかな表現がどうして不快なのかわからない」と言い切れる人たちにとって、そういった反応は普通なのかもしれません。
その人たちはこれまでジェンダーやセクシュアリティについて、幸いにも思考する機会を持たずに済んだのだと思います。マイノリティの訴える痛みや不快感に対し、「おかしなことだ」と主張するだけで済む…ということは、見方を変えれば社会の中で“特権的な立場”にあるということでもあります。しかし、多くのマジョリティに属す人たちはその特権性に気づきません。
個人的問題から社会を考える「社会学的想像力」
水無田 近年、勇気を持って声を上げるマイノリティが増え、それを支持する意見も増えています。アメリカでは「あらゆる性差別は不当で、認めるべきではない」という声が9割を超えた、という調査結果もあり、公正さが人々の感覚を変えつつあります。
今まで当たり前だったことがこの先もそうであり続けるとは限らず、社会全体の規範や通念は変化するという前提に立って、物事をとらえ続けなければなりません。
しかし、多くの人が間違いに気づいていても、それを変えるためにコストがかかるならそのまま保持しようとする「制度的惰性」のようなケースもあります。裏返せば、チェンジコストをかけても、それ以上の報酬を得られると判断できれば社会は変化を許容する。だから、社会学者は科学的検証を行わなければならないわけです。
社会の問題なのか、個人の問題なのかを正しい知識を持って検証し、社会全体の構造と結びつけて考える。ミクロな個人的問題と社会全体をつなぎ合わせて考える──これをミルズという社会学者は「社会学的想像⼒」と言いました。私はその社会学的想像力を働かせ、日常を丹念に注視しながら生活することを常に心がけています。
水無田気流氏の著書『「居場所」のない男、「時間」がない女)』(ちくま文庫)
は好評発売中!
現代日本に暮らす人々はある種の貧困に陥りやすい。仕事一本で家庭や地域に居場所を失う「関係貧困」の男性たち。生まれた時から進学、就職、結婚、育児、介護と期限に追われる「時間貧困」の女性たち。世界が平等を謳えども、いまだ両者の間には深い分断が存在する―「普通」の幸せは本当に在るのか?凝り固まった構造の歪みを今こそ丁寧に解きほぐす。

