子どもたちとの思い出に溢れている我が家
数年前から我が家の新しい体制が始まった。ボクたち夫婦と、もうすぐ90歳になる義両親との4人の生活だ。
先日、ボクの介護認定の更新の調査が数年ぶりにやってきた。
その調査員が開口一番、「いろいろなお宅を拝見していますが、大変そうですねえ」と妻に向かってそう言った。本人たちは、まだそんなに大変には思っていないのだけれど。
その日は、義父のところにリハビリや往診がやってきたり、ボクのところにもヘルパーさんがきたり、調査員の方がいらっしゃる小一時間の間に、来客がひっきりなしにあったのだ。
今の家は、もともと使っていなかった妻の実家の土地にボクが上物を建てた。息子が小学生に上がるのタイミングで下の娘も産まれた。
家族4人で、子どもの成長とともにそれなりに面白おかしく生活をしてきたつもりだ。
普段不在がちのボクだったが、家の存在は大きかった。激務の中、平静を保てていたのも家や家族の存在のおかげだった。小さかった子どもたちの成長の思い出は、壁の傷からだって思い出される。
今ボクが介護をしてもらっている部屋は、昔書斎として使っていた部屋だ。
当時は夜中に部屋に帰ると、幼かった子どもたちがパソコン周りをいじった形跡があったり、文字が書けなかった下の娘がボクの真似をして原稿用紙に書いていた象形文字のような文字らしきものを発見するだけで、殺伐とした気持ちがほぐれた。
恐ろしい事件現場から帰ってきたときだって、ホッと和んだ。じわじわっと夫に、そして父親に戻れていた。そんな家だった。
今では義両親と4人での生活がスタンダードに
広島のボクの両親が亡くなり、下の娘が成人する頃、妻の両親との同居が始まった。義両親は体調がよくなかったこともあって、営んできた会社を妻の弟である長男に譲り、代替わりして、実家から引っ越してきた。
ボクの家はもともと、義両親と同居できるように、建てるときに部屋は用意しておいた。
でもまさか、自分が体を壊すなんて夢にも思っていなかったから、年老いた義両親をまだ現役のボクたちが支えながら暮らすんだろうなあ、というなんとなくの想像しかしていなかった。
実際、義両親の部屋は用意したものの、一緒に住むとなると両親の方が「ありがたいけれど、遠慮しておく」そんな日々がながく続いていた。
しかし、ボクがくも膜下出血で生死を彷徨っているのと並行して、今の生活スタイルに変わっていった。
妻曰く、「両親の具合が心配で実家に通ったりするから、私が行かないといけないところが、1ヵ所になったほうがいい」ということだった。
義父は、我が家にやってくる少し前にがんを患い、しかも退院したと思ったら自分の会社の近くで転んで、大腿骨骨折の大怪我をした。病院に舞い戻り、今度は生死の境目を彷徨ったそうだ。
それから会社引退までの数年を経て、全く歩けなくなって我が家にやってきた。
義母は、当時は元気だったので、家事もずいぶん助けてもらった。息子も結婚して家を出たり、我が家も変化のときだったのかも知れない。
それから神足裕司家の激動時代が始まった。
ご存知の通り、ボクは要介護5で、右手が使えてかろうじて座ることができるという身体状態。寝返りも打てないし、喋ることもできない。
そんな状態でも、仕事をしなければ家計も成り立たない。何より、仕事をさせてもらえていることは、生きていく活力にもなっている。
今こうしていられるのは、仕事があるからだとも思う。仕事をしたいというボクには、人手がいる。一人では仕事もできないから。
健常だったころはノータッチだった妻が、ボクの仕事を手伝うことになった。今まで主婦だった彼女が仕事の現場に戻った。彼女の生活も大幅に変わった。
玄関を入ってすぐ左側にある、客間を義父の部屋にした。リビングを挟んで、反対側の端にある元書斎だった部屋が、ボクの寝室となった。
この2つの部屋に、介護ベッドをそれぞれ入れて生活している。
義父はこの家に来てから、本当に一所懸命リハビリをした。
大腿骨骨折の手術後、固まりまくっていた筋を徐々に緩め、歩く訓練をして数年をかけて歩けるようになっていった。
いろいろ…本当にいろいろあって、気がつけば、この4人での生活がスタンダードとなったのだ。
コロナを機に変わり始めた義両親の状態
そして今の状態は…。
相変わらずなボクと、60歳を過ぎた妻。かろうじて元気なのは妻のみ。リハビリの効果で元気になってきた義父も、元気だった義母も、この数年コロナでめっきり家を出なくなった。
義父母は90歳に手が届くほどの年齢になってきた。同居を始めたころとは、変わってしまった。二人とも外を一人で歩くのは、ちょっと不安だという。
家の中はかろうじて歩けるが、2階の部屋で生活していた義母は、階段が辛いと言い出した。
階段に手すりもつけたし、2階のトイレも入りやすいように改造した。それでも、義母の部屋を2階にしていられる期間は、あとわずかなんじゃないかと思っている。
「父の部屋に、介護ベッドを2台置けるのかなあ?」と妻。
「置くだけなら置けるだろうけど、介護していただくスペースというか、通路というか、いわゆる病院の二人部屋のような部屋の形式にするってことか?それとも縁側を庭側に伸ばしてもう一部屋個室を作るか…?」などと話していたが、自分が介護されている立場だってことをすっかり忘れて妻の相談に乗っていた。
そんなことが実際可能なのだろうか?妻が働きながら3人の介護をするってこと?
もちろんその中で一番手がかかるのはボクだ。いくらポジティブな妻だって、どうなのかなあ?と不安になり黙ってしまった。
ヘルパーさんや、リハビリの担当者が1日に何回も出入りする。ケアマネさんも一人ではない。介護認定の調査員が「まるでケアサービスの事業所みたいですね」とつい口に出すほどだ。
食事の時間には、杖をついたり、車椅子で家の真ん中にあるリビングへ集まって、妻のつくった料理を食べる。
食後に少し会話をしたり、一緒にテレビを見ることもあるが、基本的には各自部屋に戻ってケアやリハビリを受ける。
風呂もヘルパーさんが来て、入れてもらうボクや、自分でまだ入れるが介護用のバスチェアが必要な人もいる。
ボクの目の前でふきの筋取りをしながらうたた寝をする義母
認知症を気にし始めた義母が検査を受けた
義母が、今一番気にしているのが「認知」問題。
コロナ禍が、本当に元気だった義母の体を蝕んだ。消極的生活というのがこんなに体に悪いものだと、この3年間で目の当たりにしている。
物忘れもそうだが、夜中に起きてきて「今呼んだ?なに?」と真顔で妻を起こす。こんな夜中に呼ばれるんだから、何か大変なことが起きたんじゃないかと思って辛い階段を降りてくるわけだ。
「呼んでないよ」と部屋に送っていく妻。
また別の日には、いないはずの孫が帰ってきたと言って、玄関の鍵を開けてやれということもあった。
そして、昼間はリビングにある義母の椅子で、うたた寝をすることが増えた。元気なころは、家事を手伝ってくれていたが、今はほとんどできなくなってしまった。
料理をしても鍋を何十回も焦がしてしまうので、自信を失ってしまっている。
認知症の人は、自分では「認知」ということを受け入れられないと聞くが、義母は自ら検査を受けたいと言ってきた。
大学病院で検査を受けると「まだ認知症とは言えない」と言われたそうで、妻も義母もほっとした。
お医者さんに予防に「薬を飲むか?」と聞かれたが、妻も義母も薬を飲むのはまだいいかなと思ったらしい。
あと1、2年で次の段階が予想される我が家
「認知」という新たな課題を抱えた我が家。
ぼくの記憶障害だって「認知」の症状とほぼ同じらしいのだけれど、義両親はボクと違ってまだほんの少し歩ける。
もし、どこか外で迷ってしまい、そこから動けなくなったらどうしよう。ヘルパーさんたちの目のある昼間はいいが、夜中は妻の目と手に一気にかかってくる。
この先あと1、2年ぐらいで、次の段階に入るんだろうなあと思われる我が家。
さて、どうするか。施設を探すのか、自宅で介護が続けられるのか。部屋を入院病棟のようにしている家もあるのかなあ?
我が家以外でも、こんな問題を抱えているお宅もたくさんあるのだろう。両親の介護で仕事を辞めなければならないという、中年独身男性の記事を目にすることもある。
義母が昼間うたた寝するために、リビングにあった飾り戸棚を息子と娘に片付けてもらって、そこに折りたたみベッドが置けるスペースをつくった。
そう遠くないうちに、そこが義母の寝室になるのではないかなあと思っている。
現在、朝の9時半。そのリビングでこの原稿を書いているが、目の前でふきの筋取りをしていた義母がうたた寝をしている。でもそれは、今我が家のほっこりとした幸せな時間でもある。
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