出会って最初の誕生日に
マグカップを2個くれた妻
明けましておめでとうございます。新しい年が始まった。今年はどんな年になるんだろうか?
まずは、家族が、妻が幸せに過ごせればいいなって思う。初詣に行けたならそうお願いしよう。
何度か書いたかもしれないが、こんなに当たり前の生活が有難いことなのだと、しみじみ感じている自分に驚いている。
次の日が来るだけなのに、新しい年を迎えることが、うんと特別に感じられる。
「ありがとう」と、妻や家族、周りの人々に伝えたい。そして今回は、改めて妻を好きになったっていうちょっと恥ずかしい話をしたいと思う。
年中行事が好きな彼女の話。
正月を迎えるにあたり、健常だったときは年末にボクがお節料理を作っていた。
当初は、なますなど、広島にある実家の母直伝の味を妻が受け継いで作っていたが、栗きんとんは力仕事だ。
ボクがやるよと言ってやり始めたが、いつの間にかどんどん作る品数が増えていった。凝り性のボクは、道具も買い揃えて楽しい行事の一つとなっていた。
病気をしてからは、息子を助手に(ボクが助手かな?)お節料理を作った。それは、我が家の年中行事として最後の仕事であり、翌年の最初の行事であった。
我が家は行事を割と大切にするほうだと思う。
先日は、妻の誕生日だった。12月は結婚記念日もあり、36年目を迎えた。
妻と付き合うまで、誕生日なんてあまり重きを置いていなかった。
自分が子どものころは、親が毎年ケーキを用意してくれたり、大学で離れて暮らす前までは赤飯なんて炊いていてくれたな。
大学4年生のときのボクの誕生日。まだ付き合っていなかった、出会ったばかりの今の妻が、スヌーピーのマグカップを2個くれた。原宿のキデイランドの包み紙だった。 「HAPPY BIRTHDAY」と書かれたシールが貼ってあった。
ボクは彼女が好きだったから男友だちに「ねえ、なんで2個くれたんだと思う?」と聞いたりした。「知らんよ、一個じゃ少ないと思ったんじゃない?」ボクとしてはなんで2個くれたのか、それが特別の意味を持っていて欲しかったのだけど。
ボクにとって結婚記念日は
神足家ができた特別な日
それからもう40年が経った。
彼女と結婚して子どもが生まれると、彼女は節分だとか、お月見だとか、お誕生日だとか家族で行う行事をとても大切にした。
ボクにとって結婚記念日は、ボクたちの神足家ができた日という家族の記念日だ。この日は、大切にしている。
いろいろな、普段の家族への不義理を挽回すべく妻とは食事に出かけ、子ども達には記念品を用意した。
毎年食事に出かける前、銀座の博品館でささやかな記念品を買うのが常だった。すぐ先にクリスマスが控える12月の初めにおもちゃ?とも思っていたが、特別な日なんだと子ども達にも話した。
おもちゃだけでなく外国の面白いパズルや、本、実験道具や鑑定キット、今でいうドローン、空とぶカメラなんて年もあったなあ。
季節がら店頭で実演販売していることが多く、銀座も賑やかだった。そこで妻と子どものために、あれこれ選ぶのは毎年恒例の楽しみだった。
どんな悪名高きボクだって親に戻った。夫に戻った。悪名の数々を知り、ここでイラストを描いてくれている友人のサイバラには「こーたりは、ずるい」と言われた。
でも我が家ができた記念日だ。
まあ、こんな行事も家族になったからこそだった。独身のころのとんでもない生活をしていたボクにとって、自分も日本に生まれた人間なんだなあと思い出させてくれるものだった。
結婚も10年を過ぎると、妻もボクも良くも悪くも本当の意味で家族になっていく。大好きで好きで好きで結婚を申し込んだが、家族になった。安定の家族だ。
「安定の」と思っていたのはボクだけか?いろいろなことがあったが、大きな喧嘩もなく過ごしてきた。思えば妻ができた人間だったのである。
もちろん妻を嫌いになったことは一度もない。彼女がどうかわからないけれど、ボクは彼女を好きである。けれど、長い時間を経て「空気のような存在」になっていたことも間違いない。
1分でも一緒にいたいなあと思っていたはずなのに、一緒にいることが当たり前になりすぎて、そのありがたさも忘れていた。
手をつなぐこと、腕を組んで歩くなんてなんとなくありえない。そんな年月が過ぎていった。
ところが、気がついたらこんな体になっていたボクの面倒をほぼ妻が見てくれている。10年前に、病気を患ってからずっとだ。
仕事だって日常生活だって自分では何にもできない。手をつなぐどころの問題ではない。寄り添ってもらわなければ動くことだってできない。
ほぼ家にいなかったボクに
居場所があったのは妻のおかげ
こんなに一日中一緒にいるなんてことはなかった。
週の3分2は家にいなかった。いても原稿の締め切りや昼夜逆転の毎日で話す時間もなかった。唯一の接点は火曜日の朝ごはんの時間。
ギリギリで早朝5時ぐらいに原稿が書き上がっていれば、お弁当を子ども達に作った。妻とも台所で、「あれどこにある?」そのぐらいの会話があった。
子ども達の眠そうな朝の顔を見て、「行ってらっしゃい」を言ったら2時間ほど眠る。そしてラジオの収録に出かける。週の中でその時間と、あとは夜家にいられる日が一日あった。
その日は、夕方のタイムセールを狙って仕事帰りに都心のデパ地下や近くのスーパーに買い物に出かける。安くなった食材を買えた日はいい日だ。
「今日はフグチリだぞ」「5,800円のが半額だった、だから2個買ったよ」それでも高いって妻は内心思っていたかもしれないが、ボクのポケットマネーで購入するその日の夕食はちょっと豪華だったりした。
そんな2日間の接点だけの日常を10数年過ごしてきた。
父の日参観にも行けた試しがない。広島の実家で過ごす年始年末と、夏休みの旅行。それが家族と長時間一緒にいられる唯一のときだった。
それでも父としての立場を保てていたのは妻のおかげだと思う。ちゃんとボクの居場所を、立場を守っていてくれたんだなと思う。
一日中一緒にいて
知らない一面を見ることも
そんな日々を過ごしていたボクが一日中家にいる。動けないという負荷までかかって、家族には大変な迷惑をかけているわけだ。
妻のことはよく知っているつもりだったが、一緒にいるようになって知らない一面も見るようになった。
妻は、いまだに人に反論するのは苦手で、ボクの仕事のサポートをしてくれているときは、先方の気持ちになり過ぎていることも否めない。
もっと言いたいことを言ってもいいのにと思ったりもする。まかせている以上、ほとんど口出しはしないが、相手側に寄せなくても良いにって思うこともある。
ボクなら話の途中で怒鳴ってるな、そう思うこともある。
彼女のいい面が裏目に出ることもある。そしてガッカリする彼女の後ろ姿を見る。
彼女は、仕事を外でしてきて帰ってくれば、ボクや高齢な両親の介護、お風呂が壊れたら修理の依頼もするし、ご飯をそれぞれが食べられるように作る、母やボクを病院に連れて行ってくれたり、仕事の打ち合わせ、取材、来客…。
彼女のスケジュールに休みはない。早朝から夜までびっしりだ。
妻の寝息を聞きながら
大切な人だと改めて思う
先日、彼女が仕事のスケジュールを決めるのに「お休みって何曜日ですか?」と聞かれていて、「お休みって?」と真面目な顔で普通に話しているのを見ていて、休みなんてないんだよなって思った。
来る日も来る日も時間単位で予定のある彼女に、お休みをどうかとってもらいたいと思う。先方としては、空いている時間を知らせろっていうのもあったのだろうけど、その空いてる時間を作るためには、別の予定をドッカに寄せるってことなんだよなと思う。
側で見ていても、今にも倒れるのではないかって思う。近年病気にもなった彼女だが、いまだに自分のことはいつも後回しだ。それでもまだまだやりたいことがたくさんあるという。
深夜、ボクのベッドの下に布団を敷いて、撮りためたテレビ番組やネット番組をつける彼女。彼女の唯一の自分の時間だ。
けれど、数十分もしないうちに寝息が聞こえる。「眠れるだけ健康な印」と彼女は笑うけど、ボクは寝息が聞こえたらリモコンでテレビを消す係。 「ああ、この人は大切なひとだ」そうしみじみ思う。
好きになってよかったと思う。ほかの誰かが、悪く言うなんて許さないぞって思う。好きになっていく。昔の好きとは違うけれど。違う彼女を好きになる。
先日、アニメ界のプリンス像の話になった。最近は、男の子らしさ、女の子らしさの概念がなくなり、プリンスのイメージも昔とは随分変わっていると聞いた。
ボクたちが結婚したときは、男の人が稼いで家で妻と子どもが待っているのが普通のことだった。
妻は第一線でボクよりも先にいい仕事をしていた。子どもができて「ちょっと家族に専念したい」と言い出したときは驚いたが、それも彼女の望みならとその道を選択した。
今の時代ならそんなことはなかったのかもしれない。彼女の人生をいろいろ考える。
過ぎてしまったことはもう変えることはできないけれど、これからの人生で彼女が「よかった」「素敵な仕事ができた」「楽しかった」と思えることが少しでもあって欲しいと願う。
やっていてワクワクする仕事ができたらいいと思っている。年頭に寄せて。
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