ボクにとって
話すということは?

今回は、話すことについて書きたいと思う。ボクは、ほとんど発語できない。喋れないわけではない、と自分では思っている。口の中までは言葉が出てきている。たまにそれは音となって出てくることもある。喋る用意はできているんだけど、ほとんどが音となって出てこない。そんな感じなのだ。

喋りたいことをすぐに紙に書くことは可能だ。そうやって原稿を書いているのだから。ただし、誰かがいるとか、話してるとか、違うアクションが入ってくると書くことが難しくなる。

脳で思っているときと書いているときが一緒なら、指の先のペンまで一体化されている感じなのかなあ?ってボクは思っている。

後で今思ってることを書こうなんてできない相談だ。ほとんど忘れているか、さっき考えていたことが今思いついたことのように頭に浮かんでくる感じだ。

「さっき、これを書くって言ってたよ」そう言う妻の走り書きのメモや写真を見て思い出す。思い出すっていうより、「そこで新たに思いつく」という方が近いかもしれない。

コータリさんと妻

今は、どこかに出かけると360度カメラで撮ってくれているので昔より情報量がかなり多くなった。3年前だったら、スマホの画面か紙焼きの写真を見て記憶を呼び起こしていた。

「ああ、そうだ。〇〇さんも一緒に行ったんだった」そんな感じだった。でも、今はぐるっと360度見渡して「後ろ側に小さい女の子が家族と座っていたよなあ。女の子が僕たちを不思議そうに見ていたっけ?」なんて情報も加わる。

そうすると、女の子が不思議そうに見ていたのが取材した人の異常に大きい帽子だったんじゃないか?なんて思い当たったり、そこからあの帽子の人ってこう言ってたなあ、なんて思い出したり。連想ゲームの幅が広がった。

喋れない法則の例外がある。妻や家族、それとほんのわずかだけど同じように安心できる相手を媒体とするときだったら、書くときのようにコミュニケーションが取れ話すこともできる。

安心とリラックスが重要だとボクは思っている。すると、ポツポツ言葉が出る。それを書き留めてもらったり、実際自分も覚えていられたり、ボクの記憶として残る。記憶については、覚えていられることと忘れてしまうことが、どう区別されるのかはよくわからない。

この10年間
妻が支えてくれた

この10年、妻がボクの体の一部のようになってくれた。ボクの手だったり、足だったり、記憶媒体だったり、声だったりになって代わりを務めてくれた。

次の9月でくも膜下出血を発病してから10年になるが、ボクが生きていけているのはそのお陰だって忘れるぐらい当たり前になっていた。

その妻が1年ぐらい前から病気になった。元気はつらつで元来のんびり屋さんな妻で、今までボクを支えてくれていた。10年前にボクがくも膜下出血になったときも家に帰ってきてほしいと言ってくれた張本人だ。

家に帰らなければならない理由は複合的にいろいろなことを考えての決断だったのだろうけれど、何よりも家族の判断がなかったら決まらなかったことだ。

介護について
ずぶの素人だった

介護についてずぶの素人な家族は怖いもの知らず。しかも、まだ若かった。妻も50歳ちょっと過ぎたぐらい。健康だったし、体力もあった。子どもたちもまだ独立していなくって家にいた。子どもたちだってかなりの戦力になっていたに違いない。

まったく動けない、ご飯だって自分で食べられない、喋ることもできないボクを一体どうやって家で面倒をみようと思っていたのか?10年経ってみて介護についていろいろ勉強もしてみて、発症してから家に帰ってくるのは、無謀な選択をしたんだろうなあ、ってことはわかってきた。でも、なんとか家で生活してきたわけだ。

先ほども書いたが、主に面倒を見る妻が若かった。それに健康だった。のんびり屋で、あまり物事を気にしない性格(に見える)だった。いろいろ事件もあったが、帰ってきてなんとなく在宅介護はうまくいっていた。今もまあ、10年で培われた在宅介護のノウハウが駆使されてうまく回っている。

特殊な仕事もする、出かける要介護者というかなり異色なボクに、ケアマネさんもよく付き合ってくれて、無理難題を一緒に考えてくれる。

今の家族構成を聞くとさらにみなさん驚く。義父87歳。5年ほど前、癌の手術をしてから会社を引退。自転車で転んで大腿骨を骨折し、人工関節の手術を受けた。歩くことは困難だが、自宅内では自力で生活している。

義母、86歳。コロナの間にめっきり体が弱った典型的な感じ。夕飯を作るのが担当。この1年で相当弱った。あと妻。

妻は、外で仕事もするし、ボクの仕事をいろんな人に頼んだり、サポートしてくれたりもする。その他諸々の中心人物であり総指揮者。それでいて、自分も病気でもある。

けれど、ほとんど妻は自分のことを口に出して言ってこなかった。治療のために家を空けることもあり、何より妻の体力や時間的にできないことが増えた。「今だけだから、大丈夫」そう妻は言うけれど、これからもっとお互い歳をとるわけだし、今まで通りってわけにもいかない。そんなことわかっていたはずだ。妻をあまりにも頼り切っていたなあ。反省してもしきれない。

ベッドに横になるコータリさんと妻

そんな妻だけど、ボクの仕事は一番の優先順位でやってくれていた。妻がいなければ、意思の疎通だってなかなか難しい。一番頼りにしている彼女の通訳だって、的外れで苦笑いなこともある。

けれど、90%ぐらいのボクの感情を、話したいことを、口に出して「こうじゃないか」と喋ってくれて、ボクがYESあるいはNOで首を縦と横に振る方式でコミュニケーションを取ることが多い。あまりに当たらなくて何十回も首を横に振り、ボクが喋って「そうじゃない、○○だよ」なんて言うとみんなが驚く。「なんだ喋れるのか?」と。

気を許していない人には
ちゃんと喋れないなあ

いや、喋るのは苦手だ。喋ろうと思って喋れるわけではない。みんなが見ているとほとんど喋れない。ごく稀になんかの拍子で、究極の場合は喋ることもある。

あと、妻と二人きりでなんか聞かれれば話す。気を許していない人の前では、ほとんど喋れない。なぜか?妻の分析によると「ちゃんと喋ろうとするからじゃない?」だそうだ。確かにちゃんと話そうとすると呂律が回らなかったり、「通じるかな?」なんてことが頭をよぎったりする。そうなると、途端に声を出そうと思っても出なくなる。

自分から話すことはほとんどないが、やっぱりどうしても話したいことがあれば言葉が出る。こんなこともある。「御本人確認です。お名前は?」なんて妻も誰もいないレントゲン室で聞かれたら「神足裕司です」なんて話せることもある。

その初対面の技師さんはボクが話せないなんて思っていないらしい。そうなると、矢継ぎ早に「仰向けに寝てもらいたいんですが、できますか?」なんて聞いてくる。喋れない…。首を横に振る…。突然ボクの前に壁ができて、妻の顔が浮かぶ。技師さんも何百人と患者さんを見ているのでボクのような人間を見たってどうってことはないのだ。本当は。何のことはなく時はすぎていく。それもわかっている。

ただ、ボクの方だけ感情が取り残されて一人ぼっちになる。喋れないということはボクにとっては計り知れない社会との壁だ。

気持ちを伝えることは
本当に大事!

つくづく考える。喋れないということを。もし、自由に喋ることができたら、もっと仕事もできるだろうし、何より家族に言葉で気持ちを伝えることができる。「体は大丈夫?」そう妻に伝えたいときに言葉にすることだってできるのに。

我が家の決まりの一つに、「あいさつ」がある。朝起きたときに「おはよう」と妻が言う。ボクは「おはよう」と応える。寝るときには「おやすみ」も。

声に出さなければいけない場面だってボクの脳が認識している。少なくとも一日の中で夫婦が本当の声で会話したい場面である。たまにボクが喋ったつもり(本当に声に出したつもりなんだけど)で、声になっていないと、もう一回「おはよう」と言われて「おはよう」を要求される。でも、なんとなく嬉しい。それだけでもつながっていると思って、今朝も「おはよう」と言った。

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神足裕司[著] 西原理恵子[絵] 文藝春秋社 (2020/8/27発売)
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