「お母さんが認知症になって、何もわからなくなってしまうのでは...」
「どう接すればいいのだろう」
認知症の方への接し方に、不安を感じていませんか?実は、認知症になっても、その方の感情や、その人らしさは確かに残されています。むしろ、周囲の接し方によって、その方の状態は大きく変わるのです。
今回は、認知症の方を一人の人として尊重し、寄り添うケアの方法「パーソン・センタード・ケア」についてご紹介します。この考え方を理解することで、認知症の方との関わり方が大きく変わるはずです。
パーソン・センタード・ケアとは?誕生の背景と基本理念
「パーソン・センタード・ケア」という言葉を聞いたことはありますか?これは1980年代末、イギリスの心理学者トム・キットウッドが提唱した認知症ケアの考え方です。
なぜパーソン・センタード・ケアが必要なのか
かつての認知症ケアは、とても機械的なものでした。決められた時間に食事を提供し、決まった時間に入浴介助を行う。まるで工場のベルトコンベアのように、効率を重視した介護が一般的でした。
そんな状況に疑問を感じたキットウッドは、認知症の方々を長期にわたって観察しました。
すると、ある重要な発見がありました。
認知症の方は「何もわからない」わけではなく、むしろ周囲の対応によって、その表情や様子が大きく変化するということです。
人として扱われず、物のように扱われることで次第に自信を失い、生きる意欲さえ失ってしまっていた認知症の方も、一人の人として尊重され、理解されることで、穏やかに、そして生き生きと過ごせるようになったのです。
従来の認知症ケアとの違い
これまでの認知症ケアでは、ともすれば介護する側の都合が優先されがちでした。
しかし、パーソン・センタード・ケアでは、視点を180度変えます。
その方の性格は?
どんな人生を歩んできたのか?
どんな趣味や習慣があるのか?
一人の人として、その方の人生や個性に深く目を向けるのです。一見、手間がかかるように思えるかもしれません。
しかし実際には、このアプローチにより、認知症の方の状態が安定し、結果として介護者の負担も軽減されることが分かってきました。
世界と日本における広がり
この考え方は、まずイギリスで大きな反響を呼びました。
日本でも2015年以降、この考え方が急速に広がっています。新オレンジプランでも、認知症の方の意思を尊重するケアの重要性が明記され、多くの介護施設や専門職の間で基本的な考え方として支持されるようになりました。
パーソン・センタード・ケアの5つの心理的ニーズ
キットウッドは、認知症の方が持つ5つの重要な心理的ニーズを見出しました。
これらは花びらのように互いに関連し合い、中心には「愛」が置かれています。この5つのニーズを理解することが、より良いケアの第一歩となります。
くつろぎと安心感
一つ目のニーズは「くつろぎ」です。これは身体的な心地よさだけでなく、心の安らぎも含みます。
例えば、ある施設では、入居者の方々の好みに合わせて居室の雰囲気を変えてみました。
使い慣れた家具を持ち込んでもらい、好みの音楽を流すようにしたところ、不安な様子が減り、よく眠れるようになった方が多かったそうです。
また、くつろぎには人とのあたたかい関係も重要です。急かさず、ゆっくりと関わることで、心身ともにリラックスした状態が保てます。
その人らしい存在であり続けること
二つ目は「自分らしさ」の保持です。認知症になっても、その方の個性や価値観は変わりません。むしろ、自分が誰であるかという感覚を保つことが、より重要になります。
ある方は、元教師という誇りを持ち続けていました。施設では、その経験を活かし、他の入居者に詩の朗読を教える機会を設けました。先生として活躍する時間を持つことで、生き生きとした表情を見せるようになったといいます。
人や物との結びつき
三つ目の「結びつき」は、大切な人々や思い出の品との絆を指します。
認知症が進行しても、心の奥底にある大切な結びつきは残り続けます。
例えば、ご家族の写真を見て穏やかな表情を見せたり、若い頃に使っていた裁縫道具に触れて懐かしそうな様子を見せたり。
そうした結びつきを大切にすることで、その方の心が安定することがわかってきました。
意味のある活動への参加
四つ目は「携わること」です。誰しも、何かの役に立ちたい、何かを成し遂げたいという思いを持っています。認知症があっても、その気持ちは変わりません。
食器を拭く、新聞を畳む、花の水やり。
一見些細に見える活動でも、誰かの役に立っている実感が得られれば、それは大きな意味を持ちます。「ありがとう」という言葉とともに、達成感や満足感を味わえる機会を作ることが大切です。
共に生きる喜び
五つ目の「共にあること」は、社会の一員としての実感を指します。認知症になったからといって、地域社会から切り離される必要はありません。
むしろ、人とのつながりを維持することが、その方の生きる力となります。
施設での行事参加や、地域の集まりへの参加。時には、認知症カフェのような場で、同じ経験を持つ方々と交流することも有効です。「一人じゃない」という実感が、大きな支えとなるのです。
パーソン・センタード・ケアの実践方法
ここまで理論的な部分を見てきましたが、では具体的にどのように実践していけばよいのでしょうか。
認知症ケアマッピングの活用
より良いケアを実現するための具体的な手法として、「認知症ケアマッピング(Dementia Care Mapping:DCM)」があります。
これは、認知症の方の様子を科学的に観察・記録する方法で、パーソン・センタード・ケアの実践に大きな効果を発揮します。
具体的には、6時間以上かけて、5分ごとに以下の3つの項目を記録していきます。
1つ目は「どのような行動をしているか」です。
例えば、清掃の仕事をされていた方が、テーブルを何度も拭く様子が見られたら「仕事に関する行動=A」と記録します。また、元野球選手だった方がスポーツ中継に夢中になる様子は「趣味に関する行動=B」として記録します。
2つ目は「その時の状態」です。
笑顔で生き生きとしているのか、それとも不安そうな様子なのか。「例外的によい状態」から「最もよくない状態」まで、6段階で評価します。これにより、どんな時に心地よく過ごせているのかが見えてきます。
3つ目は「介護者との関わり」です。これは介護者を評価するためではなく、どのような関わり方がその方の心の安定につながるのかを理解するためのものです。時には、何気ない一言や態度が、予想以上に大きな影響を与えていることに気づかされます。
ある施設では、このケアマッピングを通じて、興味深い発見がありました。これまで「問題行動」と思われていた行動の多くが、実はその方なりの意味を持っていたのです。例えば、「落ち着きがない」と思われていた方が、実は特定の時間帯に決まった行動を繰り返していることがわかりました。その方の職歴を調べてみると、かつての仕事の時間帯と一致していたのです。
このように、客観的な観察と記録を通じて、その方の行動の意味を深く理解することができます。それは、より適切な支援方法を見出すための重要な手がかりとなるのです。
日常生活での具体的なアプローチ
佐藤さん(仮名・84歳)の事例をご紹介しましょう。
佐藤さんは、認知症の進行により、朝から晩まで「お料理を作らないと」と落ち着かない様子でした。当初、施設のスタッフは「もう作る必要はありませんよ」と説明を繰り返していましたが、かえって混乱を招いていました。
生活歴を詳しく聞くと、4人の子どもを育てながら、40年以上にわたって家族の食事を作り続けてきたことがわかりました。そこでスタッフは、食材の下ごしらえや盛り付けを一緒にしてもらう、献立を相談する、他の入居者に料理のコツを教えてもらうなど、できる範囲で役割を担っていただくことにしました。
スタッフが特に気づいたのは、佐藤さんが朝方に強い不安を見せることでした。これは、長年の習慣として朝食の準備をしていた時間帯と重なっていました。スタッフは、この時間帯に特に配慮して関わるようにしました。
例えば、「今日の朝食は和食なんですよ」と話しかけ、和食に詳しい佐藤さんならではの意見を聞くようにしました。「お味噌汁の具は何がいいでしょうか?」「大根おろしの量はこれくらいでしょうか?」など、具体的な相談をすることで、佐藤さんの豊富な経験を活かす機会を作りました。
また、他の入居者との関係づくりにも変化が生まれました。佐藤さんの手際の良さを見た他の入居者から「私も教えてもらいたい」という声が上がるようになったのです。スタッフは、安全に配慮しながら、佐藤さんを中心とした小さな料理教室のような時間を設けました。
「かぼちゃの煮物は、最初は固めに茹でておくのがコツよ」「お浸しは、お醤油をかける前に軽く絞るのがいいのよ」
そんな佐藤さんの言葉に、周りの入居者が真剣に耳を傾ける姿が見られるようになりました。教える立場に立つことで、佐藤さんの表情はさらに生き生きとしてきました。その結果、佐藤さんは次第に落ち着きを取り戻し、「今日のおかずは佐藤さんと一緒に作ったのよ」というスタッフの言葉に、誇らしげな表情を見せるようになりました。
家族介護者ができる工夫
在宅で介護をされているご家族にとって、パーソン・センタード・ケアの実践は特に重要です。田中さん(仮名・88歳)のご家族の事例をご紹介しましょう。
田中さんは長年野球が大好きで、地域の少年野球チームの監督も務めていました。認知症が進行し、テレビの野球中継が始まると食事も取らずに見入ってしまい、生活リズムが乱れることが増えていきました。当初、ご家族は「もう食べましょう」と声をかけ続けていましたが、かえってイライラした様子になってしまいます。
野球中継を見る時の田中さんの様子は、まるで若かりし頃に戻ったかのようでした。選手の動きに一喜一憂し、時には審判の判定に声を上げることもありました。家族は当初、この様子に戸惑いを感じていました。しかし、介護の専門家に相談したところ、「これは田中さんにとって、とても大切な自己表現の機会かもしれません」とアドバイスを受けました。
そこで家族は、野球観戦の時間を特別な機会として捉え直すことにしました。息子さんは、父が監督を務めていた時代の古いユニフォームを探し出し、中継を見る時に着用するようにしました。すると田中さんは目を輝かせ、そのユニフォームにまつわる思い出を次々と語り始めたのです。
「あの頃の子どもたちは、本当によく頑張ったんだ。朝練も休まず来てね...」
また、家族は地域の少年野球チームの現在の様子も伝えるようにしました。田中さんが築いた伝統が今も受け継がれていることを知り、とても喜ばれたそうです。
食事の時間も、野球にちなんだ工夫を取り入れました。例えば、「7回の表が終わったら、おにぎりを食べましょう」「次の回までに、お味噌汁を飲みませんか?」といった声かけをすることで、自然な形で食事を取れるようになっていきました。
こ野球の話に付き合い、好きな選手の思い出話に耳を傾け、時には応援グッズを身につけながら一緒に観戦することで、自然と会話が弾み、試合の合間に食事を取ることができるようになったのです。
このように、その方の興味や関心に寄り添うことで、より自然なコミュニケーションが生まれていきます。時には介護のペースが乱れることもありますが、その方の気持ちを尊重することで、結果的により良い関係を築くことができるのです。認知症の方の個性や生活歴を深く理解し、それを日常のケアに活かすことで、より豊かな関係性が築けることがわかります。大切なのは、「問題行動」として抑制するのではなく、その方らしさの表現として受け止め、適切な形で支援することなのです。
明日からできる具体的な一歩
パーソン・センタード・ケアは、特別な技術ではありません。
以下のような小さな実践から始めることができます。
まず大切なのは、その方の言動の背景に目を向けることです。
「なぜそう感じているのだろう?」「何を求めているのだろう?」と、その方の立場に立って考えてみましょう。
次に、その方の好きなこと、得意なことを活かす機会を作ります。
例えば、長年教師をされていた方なら、漢字の書き方を教えてもらう。園芸が趣味だった方なら、植物の育て方についてアドバイスをもらう。
そうした機会を通じて、その方の存在価値を認め合える関係を築いていきます。
そして何より、一人の人として敬意を持って接することを忘れないでください。
認知症があっても、その方の感情や誇り、そして人としての尊厳は変わりません。むしろ、周囲の理解と支えが、より大切になってくるのです。
介護の道のりは決して平坦ではありません。しかし、目の前の認知症の方を一人の人として深く理解し、その気持ちに寄り添うことから始めてみませんか。その小さな一歩が、きっと大きな変化をもたらしてくれるはずです。
最後に、パーソン・センタード・ケアを実践する上で、忘れてはならない大切なポイントがあります。それは、介護者自身のケアです。
認知症の方に寄り添い、その方の気持ちを理解しようとすることは、時として大きな心理的負担となることがあります。
「もっと上手くできたはず」「十分に理解できていないのでは」と、自分を責めてしまうこともあるでしょう。
しかし、完璧を求める必要はありません。その時々でできる最善を尽くし、時には他の家族や専門職の力も借りながら進んでいく。そうした柔軟な姿勢も、パーソン・センタード・ケアの重要な要素なのです。
困ったときは、地域包括支援センターや認知症カフェなど、相談できる場所を活用することをお勧めします。同じような経験を持つ方々との出会いが、新たな気づきや支えとなることも多いはずです。
一人の人として認知症の方に寄り添い、同時に介護者である自分自身も大切にする。その両方のバランスを取りながら、ゆっくりと、しかし着実に歩んでいきましょう。